"忘れられなかった一つの名前" 第6話
老は息をのみ、声を震わせた。
「隆は、まだ持っていたのか」
その言で、健は初めて、父の沈黙の向こう側をる物へたどり着いた。
瀬修は79歳で、隆や本と同じ部隊に所属していた。戦で別れた、別の経で岸へ到着し、終戦に帰還しただった。
健は野の瀬宅を訪ねた。の古いで、瀬は杖をつきながら玄関まで迎えにた。
机のへボタンを置くと、瀬は両で包むように持った。裏側の名を確かめ、何度も頷いた。
「本は、何にでも名を刻んでいた。飯盒にも筒にも、釘で名をいていたよ。自分がいなくなっても、持ち物だけは帰れるかもしれないと言っていた」
瀬は、本と隆の関係を話し始めた。2は互いに何度も助けい、どちらか方が命の恩という関係ではなかった。
「隆は、自分が本のを奪ってき残ったとっていた」
「奪ったのですか?」
「違う。本が残したんだ。隆が眠っているに、自分の乾パンと筒を置いて姿を消した」
瀬は帰還、別の者から2が最にいた所を聞いていた。本はと脚の傷で歩けず、自分が残れば隆もれないと分かっていた。
そのため、隆が眠っているにの反対側へ向かった。敵の注を自分へ引きつけ、隆が岸へめるようにした能性がかった。
広告
「隆は、自分が眠らなければ本を止められたとっていた。を半分にしていれば、2とも帰れたかもしれないとも言っていた」
「本当に、2で帰る方法はなかったのでしょうか」
瀬は首を横に振った。
「誰にも分からない。あのののことを、今の全な部で考えても答えはない。だが隆は40、自分を裁き続けた」
健は父がを無駄にすることへ激しくった理由を理解した。蛇から流れるを見るたび、隆はへこぼれた最のをいしていた。
「父は、本さんのことを戦したと考えていたのでしょうか」
「では、そうっていただろう。だが認めれば、自分だけが本ので帰ったことになる。だからきている能性を捨てられなかった」
瀬は、隆から何度も本の消息を尋ねられたという。戦友会でしい帰還者の報がるたびに確認し、に残った元兵士の話があればをいた。
「私たちは途で諦めた。族も仕事もあり、きることで精いっぱいだったからだ。でも隆だけはやめなかった」
「約束したからですか」
「それだけじゃない。忘れれば、自分が楽になると分かっていたからだろう。楽になることを、隆は自分に許さなかった」
健は、父が戦友への誠だけでボタンを守っていたのではないとった。
広告
それは約束の証しであると同に、自分を責め続けるための物でもあった。
「本さんは、父に苦しんでほしかったのでしょうか」
瀬は静かに首を横に振った。
「本が言ったのは、俺を忘れないでくれ、だ。おは苦しめ、ではない。隆は約束の半分しか聞けなかったのかもしれないな」
健はボタンを見つめた。父は本の名を忘れなかった。しかし、本が自分へきてほしいと願ったことまでは受け取れず、罪悪として抱えてしまった。
瀬はちがり、古い箪笥から枚の写真をした。征の部隊で撮した集写真だった。
列の端に、若い隆がっていた。その隣には、細い目で笑う青がいた。
「これが本弘だ」
健は初めて、ボタンに刻まれた名の顔を見た。英雄でも、劇の象徴でもない。し着崩れた軍を着て、隣の隆へ肩を寄せている普通の青だった。
写真を見つめるうちに、健は父が伝えたかったものをようやくじた。本弘という物は、父を救うためだけにしたのではない。
笑い、空腹に耐え、故郷の話をし、戦争が終われば何をしたいかを考えていたのだった。そのを「父の命を救った戦友」というい言葉だけで終わらせてはならない。
瀬は、本が故郷について話した内容をいくつか覚えていた。
の炭鉱町で育ち、父親は坑内事故でくなった。母親と妹は本が征するに本州へ移ったが、その、空襲でくなったと聞かされていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
タダ宿の代償
64歳の佐々木敦子のもとに、久しぶりに長男・大輔から電話がかかってきた。 連休に家族で帰ってくるという話に、最初は孫に会える喜びを感じた敦子。だが大輔は、当然のようにこう言った。 「母さんの家に泊まるから。ホテル代もかからないし」 しかも泊まりに来るのは、息子一家だけではなかった。嫁の両親、妹夫婦、友人夫婦まで含めた総勢10人。食事、布団、タオル、駐車場、留守番まで、敦子の家はいつの間にか“無料の宿”として扱われていた。 それでも家族のためならと我慢しかけた敦子だったが、旅行の三日前、切れていなかった電話の向こうから、息子夫婦の本音を聞いてしまう。 「母さんの家使えばタダじゃん」 「お母さんってちょろいよね」 その瞬間、敦子の中で何かが静かに切れた。 この家は、3500万円を出して自分が買った家。誰かが当然のように使っていい場所ではない。 翌日、敦子は弁護士へ相談し、玄関の鍵を替える。 そして連休当日。何も知らずに10人で家の前へやって来た息子夫婦を待っていたのは、もう開かない玄関だった――。親不孝|親子関係1.9万字5 0 -
完結第12話
義母ATM、ハワイへ消ゆ
67歳のみち子は、息子夫婦と孫たちを迎えるため、今年も静かに正月の準備を始めていた。 ところがクリスマスの朝、嫁の歩美から突然告げられる。 「今年は15人で行きますから」 食事、寝具、お年玉、観光費まで、すべて義母であるみち子が用意する前提。さらに歩美は、SNSでみち子を「ATMみたい」と笑い、長年の援助まで馬鹿にしていた。 37年間働き、息子夫婦に2500万円以上を援助してきたみち子は、その日ようやく気づく。 自分は家族に大切にされていたのではない。都合よく使われていただけだったのだ。 そして12月29日。 15人が玄関前に集まった時、家の鍵は開かなかった。 その頃みち子夫婦は、すでに日本にはいなかった――。ATM扱い|親子関係1.8万字5 0 -
完結第10話
形見を捨てた嫁の代償
妻の三回忌の日、68歳の竹内正男は、久しぶりに帰ってくる息子一家のため、亡き妻がよく作っていた煮物と甘い卵焼きを用意していた。 孫に妻の思い出を伝えようと、正男は40年間大切に使われてきた花柄のエプロンを見せる。それは妻が家族のために台所に立ち続けた証であり、正男にとって何より大切な形見だった。 しかし嫁の彩花は、そのエプロンを何のためらいもなくゴミ袋へ放り込む。 「古いものは整理した方がいいですよ」 その一言で、正男の中の何かが静かに崩れた。 ところがその後、彩花は仏壇の横に置かれた一通の封筒を見つける。そこに書かれていたのは、マンション2棟と預金3000万円、そして遺言書という文字。 次の瞬間、さっきまでゴミ扱いしていた形見を、嫁は突然「大切にします」と言い出した。 形見の本当の価値は、金で測れるものなのか。 亡き妻が残したエプロンをめぐり、家族の本音が静かに暴かれていく。親不孝|親子関係1.5万字5 0 -
完結第11話
雪峠の五発
2006年11月15日、長野県北部。 その年最初の雪が降り始めた高木峠へ、1人の巡査が向かった。展望台に不審な車があるという匿名通報を受け、霧谷慎也は「確認だけ」のつもりでパトカーを走らせる。 だが午後6時15分、現場到着を知らせる無線を最後に、慎也からの連絡は途絶えた。 雪の展望台に残されていたのは、鍵のかかったパトカーと、車内に置かれた制帽と手袋。慎也本人だけが、吹雪の峠から忽然と姿を消していた。 事故なのか、事件なのか。誰かに連れ去られたのか。それとも、自ら山へ入ったのか。 妻と幼い娘は、答えのないまま13年を過ごすことになる。 そして2019年春。雪解けの斜面から、慎也が持っていた古い懐中電灯が見つかった。 13年間沈黙していた峠が、初めて返した小さな手がかり。 その光の先に隠されていたのは、匿名通報の本当の意味と、雪の下に封じられていた一夜の真実だった。ミステリー|行方不明1.7万字5 0 -
完結第13話
青いチョーク
63歳の田中澄江は、夫を亡くしてから2年間、午後4時になると必ず家を出るようになっていた。 夕方の光が差し込む居間には、亡き夫の湯呑みと、言葉にできない寂しさだけが残っていた。そんなある日、取り壊し前の小学校の前で、澄江は一本の青いチョークを拾う。 何気なく引いた一本の線。灰色の壁に描いた小さな青い四角。 それはただの落書きのはずだった。けれど、その壁に一人の少年が現れ、やがて子どもたちや町の人々が少しずつ色を足していく。 消えては描かれ、また雨に流されるチョークの絵。 夫を失った悲しみの中で止まっていた澄江の午後4時は、いつしか少しずつ違う色を持ち始める。 一本の青いチョークが、空白になった人生に静かな線を引いていく物語。人生逆転1.9万字5 0 -
完結第12話
ETCに残らない白バイ
2003年春、千葉県の高速道路を巡回していた女性白バイ隊員・水島舞が、サービスエリアで忽然と姿を消した。 監視カメラには、彼女が白バイを降りて建物へ入る姿が残されていた。だが、その18分後、白バイに乗って走り去ったのは舞ではなく、ヘルメットで顔を隠した見知らぬ男だった。 舞本人も、白バイも見つからない。料金所の記録にも、ETCログにも、その後のはっきりした足取りは残っていなかった。 結婚を控えていた婚約者、娘の帰りを待ち続ける両親、そして答えを出せないまま止まった捜査。 10年後、古い監視映像を最新技術で解析した時、画面の隅に映っていた“あるもの”が、事件を再び動かし始める。 白いバイクは、どこへ消えたのか。 そして水島舞が最後に見た人物とは――。ミステリー|行方不明1.7万字5 0 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5万字5 0