"忘れられなかった一つの名前" 第9話
静の言葉に、瀬は目を伏せた。
「いや、本も帰っていれば苦しんだといます。誰も同じままでは戻れなかった」
その言葉によって、部の空気が静かに変わった。帰還した者が幸運で、帰れなかった者が運だったというだけではない。き残った者にも、終わらない戦争が残されていた。
集まりの最、健はボタンを紀子のへ置いた。
「父のには、ご族が望むなら返すようにとかれていました。どうしますか」
紀子は箱を見つめた、ボタンを持ちげた。裏側の名を指でなぞり、しばらく目を閉じた。
「これは叔父のものです。でも、叔父が佐藤さんへ渡し、佐藤さんが40守ったものでもあります。つの族だけが持つより、つの族で守りたいといます」
相談の結果、ボタンは毎8に両のをき来させることになった。1は佐藤で保管し、翌は坂井へ渡す。ボタンと共に、隆の、本の写真、美代のを複写した記録箱も移すことにした。
単なる形見の受け渡しではなかった。箱が移るたび、両が顔をわせ、本と隆についてしく分かったことを記録へ加えた。
数、瀬がくなると、遺族から部隊の写真やが寄贈された。本が隆の誕に描いた、な似顔絵も見つかった。
写真の裏には、本の字でい言葉がかれていた。
広告
〈帰ったら、佐藤の子供に見せること。お父さんは昔から難しい顔だったと教えてやる〉
健はその文章を読み、声をして笑った。父がきているには像できなかった、若い隆の姿がそこにあった。
平成に入る頃、健は父と本の記録を元の平資料へ寄贈した。ボタンそのものは両で保管し、展示には精巧な複製を使った。
展示説には、隆を英雄とも、本を美しい犠牲者ともかなかった。
〈戦争末期、2の青がも料もないに取り残された。は帰還し、は戻らなかった。帰還した青は戦友の名が刻まれたボタンを40守り続けた〉
そのには、隆のから文が引用された。
〈忘れないことは、苦しみ続けることと同じではない。私は、その違いを最までうまく理解できなかった〉
展示を見た若い学が、健へ尋ねたことがある。
「お父さんは、本さんとの約束を守れたといますか」
健はすぐには答えなかった。父は本の名を忘れなかったが、その約束によって自分を責め続けた。族へ話せず、息子との距を作ったままくなった。
完全に守れたとも、守れなかったとも言えなかった。
「父は、できる限り守ろうとしたのだといます。ただ、で背負わず、もっとく私たちへ話してくれればよかった。
広告
記憶はで抱えるより、誰かと分けた方がく残りますから」
学は展示ケースののボタンを見つめ、静かに頷いた。
健がだった昭32、ボタンは過に執着する父の象徴に見えた。父の、それは本のを証する形見となり、さらにがたつと、隆が語れなかった苦しみを族へ伝えるになった。
物のは、最初からつに決まっているわけではない。誰が持ち、何をり、次のへどのように渡すかによって変わっていく。
隆が守っていたのは、軍でも戦争のいでもなかった。帰れなかったの青が確かにき、笑い、修理を持つを抱いていたという事実だった。
同にボタンは、戦争が終わっても沈黙ので苦しみ続けた隆自の証しでもあった。父が何も語らなかったさえ、族がから理解し直すことで、別のを持ち始めたのである。
毎8になると、健と紀子の族は箱を持って集まった。子供や孫たちへ、ボタンの価値を価な骨董品のように説することはなかった。
「これは、本弘というの名が刻まれたボタンです。そして、それを忘れなかった佐藤隆というがいました」
必なのは、それだけだった。
さな属片には、戦争のすべてを語る力などない。
本が最に何をい、どこで涯を終えたのかも分からない。
それでも、名が残れば、そのが単なる数のではなかったとることができる。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
タダ宿の代償
64歳の佐々木敦子のもとに、久しぶりに長男・大輔から電話がかかってきた。 連休に家族で帰ってくるという話に、最初は孫に会える喜びを感じた敦子。だが大輔は、当然のようにこう言った。 「母さんの家に泊まるから。ホテル代もかからないし」 しかも泊まりに来るのは、息子一家だけではなかった。嫁の両親、妹夫婦、友人夫婦まで含めた総勢10人。食事、布団、タオル、駐車場、留守番まで、敦子の家はいつの間にか“無料の宿”として扱われていた。 それでも家族のためならと我慢しかけた敦子だったが、旅行の三日前、切れていなかった電話の向こうから、息子夫婦の本音を聞いてしまう。 「母さんの家使えばタダじゃん」 「お母さんってちょろいよね」 その瞬間、敦子の中で何かが静かに切れた。 この家は、3500万円を出して自分が買った家。誰かが当然のように使っていい場所ではない。 翌日、敦子は弁護士へ相談し、玄関の鍵を替える。 そして連休当日。何も知らずに10人で家の前へやって来た息子夫婦を待っていたのは、もう開かない玄関だった――。親不孝|親子関係1.9万字5 0 -
完結第12話
義母ATM、ハワイへ消ゆ
67歳のみち子は、息子夫婦と孫たちを迎えるため、今年も静かに正月の準備を始めていた。 ところがクリスマスの朝、嫁の歩美から突然告げられる。 「今年は15人で行きますから」 食事、寝具、お年玉、観光費まで、すべて義母であるみち子が用意する前提。さらに歩美は、SNSでみち子を「ATMみたい」と笑い、長年の援助まで馬鹿にしていた。 37年間働き、息子夫婦に2500万円以上を援助してきたみち子は、その日ようやく気づく。 自分は家族に大切にされていたのではない。都合よく使われていただけだったのだ。 そして12月29日。 15人が玄関前に集まった時、家の鍵は開かなかった。 その頃みち子夫婦は、すでに日本にはいなかった――。ATM扱い|親子関係1.8万字5 0 -
完結第10話
形見を捨てた嫁の代償
妻の三回忌の日、68歳の竹内正男は、久しぶりに帰ってくる息子一家のため、亡き妻がよく作っていた煮物と甘い卵焼きを用意していた。 孫に妻の思い出を伝えようと、正男は40年間大切に使われてきた花柄のエプロンを見せる。それは妻が家族のために台所に立ち続けた証であり、正男にとって何より大切な形見だった。 しかし嫁の彩花は、そのエプロンを何のためらいもなくゴミ袋へ放り込む。 「古いものは整理した方がいいですよ」 その一言で、正男の中の何かが静かに崩れた。 ところがその後、彩花は仏壇の横に置かれた一通の封筒を見つける。そこに書かれていたのは、マンション2棟と預金3000万円、そして遺言書という文字。 次の瞬間、さっきまでゴミ扱いしていた形見を、嫁は突然「大切にします」と言い出した。 形見の本当の価値は、金で測れるものなのか。 亡き妻が残したエプロンをめぐり、家族の本音が静かに暴かれていく。親不孝|親子関係1.5万字5 0 -
完結第11話
雪峠の五発
2006年11月15日、長野県北部。 その年最初の雪が降り始めた高木峠へ、1人の巡査が向かった。展望台に不審な車があるという匿名通報を受け、霧谷慎也は「確認だけ」のつもりでパトカーを走らせる。 だが午後6時15分、現場到着を知らせる無線を最後に、慎也からの連絡は途絶えた。 雪の展望台に残されていたのは、鍵のかかったパトカーと、車内に置かれた制帽と手袋。慎也本人だけが、吹雪の峠から忽然と姿を消していた。 事故なのか、事件なのか。誰かに連れ去られたのか。それとも、自ら山へ入ったのか。 妻と幼い娘は、答えのないまま13年を過ごすことになる。 そして2019年春。雪解けの斜面から、慎也が持っていた古い懐中電灯が見つかった。 13年間沈黙していた峠が、初めて返した小さな手がかり。 その光の先に隠されていたのは、匿名通報の本当の意味と、雪の下に封じられていた一夜の真実だった。ミステリー|行方不明1.7万字5 0 -
完結第13話
青いチョーク
63歳の田中澄江は、夫を亡くしてから2年間、午後4時になると必ず家を出るようになっていた。 夕方の光が差し込む居間には、亡き夫の湯呑みと、言葉にできない寂しさだけが残っていた。そんなある日、取り壊し前の小学校の前で、澄江は一本の青いチョークを拾う。 何気なく引いた一本の線。灰色の壁に描いた小さな青い四角。 それはただの落書きのはずだった。けれど、その壁に一人の少年が現れ、やがて子どもたちや町の人々が少しずつ色を足していく。 消えては描かれ、また雨に流されるチョークの絵。 夫を失った悲しみの中で止まっていた澄江の午後4時は、いつしか少しずつ違う色を持ち始める。 一本の青いチョークが、空白になった人生に静かな線を引いていく物語。人生逆転1.9万字5 0 -
完結第12話
ETCに残らない白バイ
2003年春、千葉県の高速道路を巡回していた女性白バイ隊員・水島舞が、サービスエリアで忽然と姿を消した。 監視カメラには、彼女が白バイを降りて建物へ入る姿が残されていた。だが、その18分後、白バイに乗って走り去ったのは舞ではなく、ヘルメットで顔を隠した見知らぬ男だった。 舞本人も、白バイも見つからない。料金所の記録にも、ETCログにも、その後のはっきりした足取りは残っていなかった。 結婚を控えていた婚約者、娘の帰りを待ち続ける両親、そして答えを出せないまま止まった捜査。 10年後、古い監視映像を最新技術で解析した時、画面の隅に映っていた“あるもの”が、事件を再び動かし始める。 白いバイクは、どこへ消えたのか。 そして水島舞が最後に見た人物とは――。ミステリー|行方不明1.7万字5 0 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5万字5 0