"尋ね人が呼んだ母の旧姓" 第1話
昭33の、埼玉県のさな町では、が暮れると通りからが急に減った。夕方までいていた商も々に戸を閉め、々の窓から漏れるのかりだけが、えたをぼんやり照らしていた。
岡田では、夕を終えると族5が茶のに集まるのがいつもの習慣だった。鉢のでは鉄瓶がかすかな音をて、箪笥のに置かれた製のラジオから、ニュースや謡曲、気予報が途切れることなく流れていた。
このには、まだテレビがなかった。
だからラジオは、岡田にとっての世界をるための切な具だった。学から帰った子どもたちは流を楽しみにし、父の清はニュースにを傾け、母の文子は事をしながら放送を聞いていた。
その夜も、いつもと同じだった。
15歳になる男の夫は、ちゃぶ台の端に教科とノートを広げて宿題をしていた。鉛をらせながらも、々ラジオから流れる音楽にを傾けている。
父の清は聞をきく広げていた。仕事を終えて帰宅し、呂と夕を済ませたに聞を読むのが毎の習慣だった。
母の文子は鉢のそばで、弟の破れた靴を繕っていた。
細い針に糸を通し、穴の周りを丁寧に縫っていく。々元をしして仕がりを確かめ、それからまた静かに針をかしていた。
広告
のには、針が布を通るさな音と、聞をめくる音があった。
やがて番組が変わった。
ラジオから落ち着いた声が流れ始める。
それは「尋ね」の放送だった。
戦争や終戦直の混乱で、族とればなれになったを探すため、名や齢、などを読みげる番組だった。戦争が終わって13が経っても、まだ切な族の消息を探し続けているはなくなかった。
岡田の者たちも、その番組のはっていた。
しかし、自分たちに関係するものだとったことは度もない。
夫も特に識せず、算数の問題を解きながら聞いていた。
「旧満州より引き揚げた――」
アナウンサーの声が続く。
「旧姓・文子さんを探しています」
その瞬だった。
針をかしていた文子のが止まった。
糸を引く途だったため、針が靴の布に刺さったまま宙に浮いていた。
夫は最初、母が聞き違えたのだとった。
だが、父の清まで聞をゆっくりろした。
文子。
その名を、夫はっていた。
母の結婚の名だった。
「母さん……」
わず声をかけたが、文子は答えなかった。
ラジオは何事もなかったように続いていた。
探しているのは、京にむ19歳の女性。
名は恵子。
夫は鉛を置いた。
弟たちも、いつのにか遊びをやめてラジオの方を見ていた。
広告
そして、アナウンサーが次の言葉を読みげた。
「本は、文子さんを『母』と記憶しているとのことです」
清が聞を完全に畳んだ。
茶のから、活の音が消えた。
鉢ので鉄瓶だけが、かすかな音をてていた。
文子はしばらくかなかった。
次の瞬、突然ちがった。
靴も針もそのまま畳のへ置き、箪笥のところまでく。
そしてラジオのスイッチを切った。
ぶつり、と音が途絶えた。
「母さん?」
夫が呼んだ。
文子は背を向けたままだった。
清はしばらく妻を見つめていたが、やがてい声で名を呼んだ。
「文子」
返事はない。
「今のは、どういうことだ」
文子はゆっくり振り返った。
顔が悪かった。
いつもなら子どもたちので夫婦が声を荒らげることなどない。だからこそ、夫は父の声が妙に怖く聞こえた。
「らないよ」
文子がようやく答えた。
「らない?」
清の眉がいた。
「らないが、おの昔の名をして、おを母親だと言うのか」
「……昔のことなの」
「何の昔だ」
文子は俯いた。
何も答えなかった。
その沈黙こそが、夫には答えのようにじられた。
清は子どもたちを見た。
「もう遅い。おたちは寝なさい」
まだ寝るにはしかったが、誰も逆らわなかった。
夫は弟たちを連れて奥の部へ入った。
襖を閉めても、茶のの空気がこちらまで入り込んでくるようだった。
布団に入ってからも眠れなかった。
しばらくすると、襖の向こうから父の声が聞こえてきた。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
名札を戻せなかった夏
昭和19年、学童疎開の列車に乗った二人の少女は、ほんのいたずらのつもりで胸の名札を取り替えた。 「明日になったら戻そうね」 そう笑って交わした小さな約束。けれど、戦争はその約束を簡単には戻せないものにしてしまう。 東京大空襲、家族の消息不明、終戦直後の混乱。迎えのない子どもたちが不安の中で待つ寺に、ある日、一人の伯母が現れる。 「桐生美津子を引き取りに来ました」 その時、立ち上がったのは、本当の美津子ではなかった。 たった一枚の名札が、二人の人生を入れ替えてしまう。 そして21年後、古い疎開写真に残された違和感が、封じられていた真実を静かに呼び覚ます――。昭和1.6万字5 0 -
完結第11話
預かったままの革靴
昭和25年、戦後の面影が残る東京の駅前で、13歳の健二は靴磨きをして暮らしていた。 父は戦争から帰らず、母も亡くなり、頼れる人もいない。寒さと空腹に耐えながら、健二は毎日、通り過ぎる人々の靴を磨いていた。 そんな健二の木箱の横には、いつも一足の古い黒い革靴が置かれていた。 右のつま先には深い傷。左のかかとはすり減り、決して立派な靴ではない。それでも健二は、その靴だけは売ることも履くこともなく、何年も丁寧に磨き続けていた。 「取りに来るんだ」 そう言って、健二は持ち主を待ち続けた。 なぜ少年は、その一足を最後まで手放さなかったのか。 18年後、小さな靴修理店を開いた健二の前に、一人の老人が現れる。 古い革靴に込められていたのは、戦後を生きた人々の、名前も残らない小さな優しさだった――。昭和1.7万字5 0 -
完結第10話
質屋に出された夫の時計
大正12年9月1日、関東大震災の混乱の中で、千代の夫・信介は日本橋近くの建築会社へ出勤したまま消息を絶った。 会社の建物は崩れ、火災も広がり、周囲は「もう助からないだろう」と口にした。けれど千代だけは、夫の死を受け入れられずにいた。 そんな中、近所の質屋から信介の懐中時計が見つかる。結婚の時、千代が贈った大切な時計。それを持ち込んだのは、信介とは別の見知らぬ男だった。 なぜ、夫の時計が質屋にあったのか。 さらに信介の机からは、千代の知らない鍵と、本郷の下宿の住所が書かれた紙片が見つかる。まとまった金の引き出し、汽車の切符、秘密の部屋――。 夫は震災を利用して、家族を捨てようとしていたのか。 疑いと悲しみに揺れる千代がたどり着いた先には、信介が最後まで隠し続けた、もう一つの真実が待っていた。昭和1.5万字5 0 -
完結第12話
家族写真の左端
明治42年、信州の城下町で生糸問屋を営む高瀬家は、初めて一家そろって写真館を訪れた。 紋付き袴の父、着物姿の母と子どもたち、そして椅子に座る祖母。出来上がった写真には、たしかに家族全員が写っていた。 しかし、背景の柱のそばに、誰も知らない若い男が一人だけ立っていた。 撮影の日、その場にいたのは高瀬家の者だけだったはず。しかも男の姿は、まるで古い記憶が重なったように薄く写っていた。 写真を見た祖母は、震える声で一つの名前を呟く。 「宗吉……」 家族の誰も聞いたことのないその名前は、高瀬家が長い間封じてきた過去へとつながっていた。 なぜ、その男の存在は家族から消されていたのか。 一枚の失敗写真が、明治の商家に隠された“もう一人の家族”の真実を静かに浮かび上がらせていく。昭和|兄弟姉妹1.8万字5 0 -
完結第11話
退職と書かれた娘たち
大正7年、大阪の町外れにある紡績工場では、毎月のように一人の女工が姿を消していた。 帳簿にはただ「退職」と記されるだけ。だが、消えた娘たちの荷物は寄宿舎に残されたままだった。櫛、手鏡、故郷からの手紙、大切にしていた着物まで――本当に自分の意思で帰ったのなら、なぜ何も持っていかなかったのか。 16歳のフミは、その不自然さに気づきながらも、家族への送金のために黙って働き続けていた。 しかし、親友の千代まで突然「退職者」として消えた時、フミは初めて工場の闇に足を踏み入れる。 病気、借金、望まぬ縁談、そして古い賃金台帳に隠された記録。 「退職」という二文字の裏で、若い女工たちは何を奪われ、何を守ろうとしていたのか――。昭和1.6万字5 0 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5万字5 0