"名札を戻せなかった夏" 第3話
ところが戦況が悪くなるにつれ、京から届く便りはなくなっていった。
最初は数に1度だった郵便が遅れ始め、待っても待っても名を呼ばれないが増えた。
美津子は先がの束を持ってくるたび、無識に胸を押さえるようになった。
そこには「森澄」とかれている。
最初は面くて仕方なかったその名も、いつのにか見慣れたものになっていた。
「まだ戻してなかったね」
ある晩、澄が言った。
美津子は自分の名札を見た。
「本当だ」
「もう、先に言った方がいいかな」
「今度でいいんじゃない?」
したことではないとっていた。
名をいた布を交換しただけなのだから。
帰るになれば戻せばいい。
美津子も澄も、そう考えていた。
けれど、京では2のらないところで、帰る所そのものが失われようとしていた。
昭203。
寺にも、京が規模な空襲を受けたというらせが届いた。
最初は、たちがさな声で話しているだけだった。
子どもたちには詳しいことを伝えないようにしていたのかもしれない。それでも、先たちの顔を見れば、何か変なことが起きたのだと分かった。
やがてしずつ話が伝わった。
京の広い範囲が焼けた。
くのがなくなった。
族の消息が分からなくなった子どももいる。
広告
それを聞いた夜、美津子はなかなか眠れなかった。
布団ので目をけたまま、暗い井を見ていた。
本のはどうなったのだろう。
母親は。
父親は。
発のに見送ってくれた族の顔を、何度もいした。
隣の布団から、さな声がした。
「美津ちゃん、起きてる?」
澄だった。
「うん」
「京、丈夫かな」
美津子は答えられなかった。
「きっと丈夫だよ」
しばらくして、ようやくそう言った。
澄も同じ言葉を返した。
「うん。きっとね」
2とも、相をさせるために言っているのだと分かっていた。
翌から、を待つがくなった。
美津子は母親へ何度も便りをいた。
こちらは無事です。
ご飯もべています。
畑仕事もしています。
く会いたいです。
返事は来なかった。
1週。
2週。
何週待っても、美津子の名は呼ばれなかった。
澄も同じだった。
先が郵便を持ってくると、2は並んで見つめた。
けれど最の1通まで読みげられても、「桐美津子」も「森澄」も呼ばれない。
「今は来なかったね」
美津子が言う。
「は来るよ」
澄が答える。
翌も来ない。
それでも2は、同じ言葉を繰り返した。
寺には、族の無事が分かった子どももいた。
父親からが来たとぶ者。
親戚のへ避難したとらされた者。
方で、が焼けたとらされた子もいた。
広告
族が見つからないという子もいた。
泣き声を聞く夜が増えた。
美津子と澄は、自分たちのについて確かならせがないことを、どこか救いのように考えようとした。
悪いらせが来ていないのだから、まだきているかもしれない。
そううしかなかった。
が過ぎ、の緑が濃くなった。
子どもたちは相変わらず畑へて、薪を拾い、ない事を分けった。
活そのものは続いていた。
しかし京の話になると、誰も以のようには笑えなくなった。
ある夜、美津子と澄は布団ので肩を寄せた。
「京に帰ったら、何べたい?」
美津子が以と同じ質問をした。
澄はしを置いて答えた。
「いご飯」
「まだそれ?」
「うん」
今度は笑わなかった。
「美津ちゃんは?」
「お母さんのお汁」
言った途端、美津子の喉が詰まった。
母親がまた作ってくれるのか。
の台所は残っているのか。
そもそも母親はきているのか。
澄も同じことを考えているようだった。
しばらくして、澄が囁いた。
「帰る、あるかな」
美津子は目を閉じた。
「あるよ」
「本当に?」
「あるっておう」
それ以は言えなかった。
胸元には、まだ入れ替えたままの名札があった。
何度も洗われた布はしが変わり、糸も緩んでいた。
最初に交換したには、翌戻すつもりだった。
それが半以もそのままになっている。
けれど今の2にとって、そんなことはどうでもよかった。
名よりもりたいことがあった。
族がきているか。
帰る所が残っているか。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
預かったままの革靴
昭和25年、戦後の面影が残る東京の駅前で、13歳の健二は靴磨きをして暮らしていた。 父は戦争から帰らず、母も亡くなり、頼れる人もいない。寒さと空腹に耐えながら、健二は毎日、通り過ぎる人々の靴を磨いていた。 そんな健二の木箱の横には、いつも一足の古い黒い革靴が置かれていた。 右のつま先には深い傷。左のかかとはすり減り、決して立派な靴ではない。それでも健二は、その靴だけは売ることも履くこともなく、何年も丁寧に磨き続けていた。 「取りに来るんだ」 そう言って、健二は持ち主を待ち続けた。 なぜ少年は、その一足を最後まで手放さなかったのか。 18年後、小さな靴修理店を開いた健二の前に、一人の老人が現れる。 古い革靴に込められていたのは、戦後を生きた人々の、名前も残らない小さな優しさだった――。昭和1.7万字5 0 -
完結第10話
質屋に出された夫の時計
大正12年9月1日、関東大震災の混乱の中で、千代の夫・信介は日本橋近くの建築会社へ出勤したまま消息を絶った。 会社の建物は崩れ、火災も広がり、周囲は「もう助からないだろう」と口にした。けれど千代だけは、夫の死を受け入れられずにいた。 そんな中、近所の質屋から信介の懐中時計が見つかる。結婚の時、千代が贈った大切な時計。それを持ち込んだのは、信介とは別の見知らぬ男だった。 なぜ、夫の時計が質屋にあったのか。 さらに信介の机からは、千代の知らない鍵と、本郷の下宿の住所が書かれた紙片が見つかる。まとまった金の引き出し、汽車の切符、秘密の部屋――。 夫は震災を利用して、家族を捨てようとしていたのか。 疑いと悲しみに揺れる千代がたどり着いた先には、信介が最後まで隠し続けた、もう一つの真実が待っていた。昭和1.5万字5 0 -
完結第12話
家族写真の左端
明治42年、信州の城下町で生糸問屋を営む高瀬家は、初めて一家そろって写真館を訪れた。 紋付き袴の父、着物姿の母と子どもたち、そして椅子に座る祖母。出来上がった写真には、たしかに家族全員が写っていた。 しかし、背景の柱のそばに、誰も知らない若い男が一人だけ立っていた。 撮影の日、その場にいたのは高瀬家の者だけだったはず。しかも男の姿は、まるで古い記憶が重なったように薄く写っていた。 写真を見た祖母は、震える声で一つの名前を呟く。 「宗吉……」 家族の誰も聞いたことのないその名前は、高瀬家が長い間封じてきた過去へとつながっていた。 なぜ、その男の存在は家族から消されていたのか。 一枚の失敗写真が、明治の商家に隠された“もう一人の家族”の真実を静かに浮かび上がらせていく。昭和|兄弟姉妹1.8万字5 0 -
完結第11話
退職と書かれた娘たち
大正7年、大阪の町外れにある紡績工場では、毎月のように一人の女工が姿を消していた。 帳簿にはただ「退職」と記されるだけ。だが、消えた娘たちの荷物は寄宿舎に残されたままだった。櫛、手鏡、故郷からの手紙、大切にしていた着物まで――本当に自分の意思で帰ったのなら、なぜ何も持っていかなかったのか。 16歳のフミは、その不自然さに気づきながらも、家族への送金のために黙って働き続けていた。 しかし、親友の千代まで突然「退職者」として消えた時、フミは初めて工場の闇に足を踏み入れる。 病気、借金、望まぬ縁談、そして古い賃金台帳に隠された記録。 「退職」という二文字の裏で、若い女工たちは何を奪われ、何を守ろうとしていたのか――。昭和1.6万字5 0 -
完結第10話
尋ね人が呼んだ母の旧姓
昭和33年の冬、夕食後の茶の間に流れていたラジオの「尋ね人」で、15歳の和夫は思いがけない名前を耳にする。 「旧満州より引き揚げた、旧姓・高橋文子さんを探しています」 それは、母の結婚前の名前だった。 さらに放送では、東京に住む19歳の女性が、文子を「母」と記憶していると告げられる。家族が凍りつく中、母は突然ラジオを消し、「知らない人よ」とだけ言って口を閉ざした。 翌朝、母は一枚の書き置きを残して東京へ向かう。 本当に母には、家族に隠していた娘がいたのか。なぜ戸籍にも記録がないのか。そして、戦後の混乱の中で文子がついた「ひとつの嘘」とは――。 ラジオから流れた一つの旧姓が、13年間閉ざされていた家族の過去を静かに開いていく。昭和1.5万字5 1 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5万字5 0