"質屋に出された夫の時計" 第4話
女主に尋ねる。
「階号を借りていた桜井という者の妻です」
女主は驚いた顔をした。
「奥さん?」
「夫がここを借りていたんですね」
「ええ……半ほどから」
半。
千代は息をんだ。
「よく来ていましたか」
「毎じゃありませんよ。週に度か度。夜に来て、しばらくして帰ることがかったですね」
「誰か女のが来たことは?」
女主は考えた。
「私は見てません」
それでも千代の胸はかった。
階段をがる。
階号のへつ。
鍵を差し込む。
回った。
扉をけた。
畳ほどの部だった。
女物の着物はない。
布団もない。
茶碗すらつだけ。
机。
子。
類を入れた箱。
壁にてかけられた建築図面。
活のために借りた部には見えなかった。
千代は机の引きしをけた。
には鉛、定規、封筒。
ももない。
「何をしていたの……」
部をようとした。
畳の端がわずかに浮いていることに気づいた。
しゃがむ。
指をかけて持ちげる。
畳のの板が枚だけれるようになっていた。
その。
暗い隙に、油で包まれたい帳簿があった。
千代はそれを引きした。
ずしりとい。
油をし、最初のページをく。
そこには信介の字で、い言葉が並んでいた。
「セメント 規格」
「鉄材 数量差異」
「検査済印 押印」
千代はページをめくるを止めた。
同じ言葉が、何度も繰り返されていた。
広告
そして帳簿の途には、赤い鉛でつの会社名が何度も囲まれていた。
丸田組。
夫が勤めていた会社だった。
千代はそのに座り込んだまま、帳簿を読み続けた。
最初はが分からなかった。
資材の名称。
数量。
現名。
検査の付。
隣には違う数字がさくき込まれている。
何ページも見ているうちに、しずつ共通点が見えてきた。
本来納入されるはずだった数量と、実際に納入された数量が違う。
帳簿では級品になっているセメントに、「規格」と記されている。
検査を受けるの付なのに、すでに「検査済」の印がある。
信介は建築資材の検査を担当していた。
だからこそ、数字の違いに気づいたのだろう。
箱のを調べると、さらに類がてきた。
公共施設。
倉庫。
学。
。
丸田組が請け負った現の覧だった。
その部に赤い印がある。
千代は背筋が寒くなった。
「まさか……」
信介は会社の正を調べていた。
利益を増やすために、規格を満たさない資材を使っていた能性がある。
もしそうなら。
信介が会社と揉めていた理由も分かる。
千代は机の奥から、さな帳を見つけた。
そこには付とい会話が記されていた。
818。
「資材部へ再確認。問題なしと言われる」
821。
「検査記録と納品が致せず」
824。
「これ以余計なことをするなと言われる」
広告
827。
「田所さんへ相談すること」
田所。
らない名だった。
そのには所がある。
埼玉県浦。
千代は息をんだ。
野駅。
汽の切符。
もしかすると信介が買っていたのは、この田所という物を訪ねるための切符だったのではないか。
部の箱には、の封筒もあった。
は空だったが、票の控えが残っている。
確かに、震災の週にまとまったが引きされていた。
その横に、信介の字で。
「千代 半分」
千代は何度も読み返した。
逃資ではない。
自分のためだった。
もし会社を辞めることになったら。
収入がなくなっても、千代がしばらく暮らせるように。
そう考えて用していただったのだ。
「馬鹿……」
声が震えた。
「何で言わないのよ」
りより先に涙がた。
夫を疑った。
女がいるのではないか。
を捨てようとしていたのではないか。
震災を利用して逃げたのではないか。
けれど、残されていた物はすべて逆のを持ち始めていた。
信介は逃げようとしていたのではない。
会社に残る覚悟をしながら、同に辞めざるを得なくなったの準備をしていた。
千代はさらに机を調べた。
番から、鉄の切符が入った封筒がてきた。
野から浦。
付は――。
92。
震災の翌。
信介はそのに田所という物を訪ねるつもりだった。
帳簿の内容を見せるため。
会社の正を相談するため。
おそらく、そうだったのだ。
では。
91、信介はどこまでしていたのか。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
名札を戻せなかった夏
昭和19年、学童疎開の列車に乗った二人の少女は、ほんのいたずらのつもりで胸の名札を取り替えた。 「明日になったら戻そうね」 そう笑って交わした小さな約束。けれど、戦争はその約束を簡単には戻せないものにしてしまう。 東京大空襲、家族の消息不明、終戦直後の混乱。迎えのない子どもたちが不安の中で待つ寺に、ある日、一人の伯母が現れる。 「桐生美津子を引き取りに来ました」 その時、立ち上がったのは、本当の美津子ではなかった。 たった一枚の名札が、二人の人生を入れ替えてしまう。 そして21年後、古い疎開写真に残された違和感が、封じられていた真実を静かに呼び覚ます――。昭和1.6万字5 0 -
完結第11話
預かったままの革靴
昭和25年、戦後の面影が残る東京の駅前で、13歳の健二は靴磨きをして暮らしていた。 父は戦争から帰らず、母も亡くなり、頼れる人もいない。寒さと空腹に耐えながら、健二は毎日、通り過ぎる人々の靴を磨いていた。 そんな健二の木箱の横には、いつも一足の古い黒い革靴が置かれていた。 右のつま先には深い傷。左のかかとはすり減り、決して立派な靴ではない。それでも健二は、その靴だけは売ることも履くこともなく、何年も丁寧に磨き続けていた。 「取りに来るんだ」 そう言って、健二は持ち主を待ち続けた。 なぜ少年は、その一足を最後まで手放さなかったのか。 18年後、小さな靴修理店を開いた健二の前に、一人の老人が現れる。 古い革靴に込められていたのは、戦後を生きた人々の、名前も残らない小さな優しさだった――。昭和1.7万字5 0 -
完結第12話
家族写真の左端
明治42年、信州の城下町で生糸問屋を営む高瀬家は、初めて一家そろって写真館を訪れた。 紋付き袴の父、着物姿の母と子どもたち、そして椅子に座る祖母。出来上がった写真には、たしかに家族全員が写っていた。 しかし、背景の柱のそばに、誰も知らない若い男が一人だけ立っていた。 撮影の日、その場にいたのは高瀬家の者だけだったはず。しかも男の姿は、まるで古い記憶が重なったように薄く写っていた。 写真を見た祖母は、震える声で一つの名前を呟く。 「宗吉……」 家族の誰も聞いたことのないその名前は、高瀬家が長い間封じてきた過去へとつながっていた。 なぜ、その男の存在は家族から消されていたのか。 一枚の失敗写真が、明治の商家に隠された“もう一人の家族”の真実を静かに浮かび上がらせていく。昭和|兄弟姉妹1.8万字5 0 -
完結第11話
退職と書かれた娘たち
大正7年、大阪の町外れにある紡績工場では、毎月のように一人の女工が姿を消していた。 帳簿にはただ「退職」と記されるだけ。だが、消えた娘たちの荷物は寄宿舎に残されたままだった。櫛、手鏡、故郷からの手紙、大切にしていた着物まで――本当に自分の意思で帰ったのなら、なぜ何も持っていかなかったのか。 16歳のフミは、その不自然さに気づきながらも、家族への送金のために黙って働き続けていた。 しかし、親友の千代まで突然「退職者」として消えた時、フミは初めて工場の闇に足を踏み入れる。 病気、借金、望まぬ縁談、そして古い賃金台帳に隠された記録。 「退職」という二文字の裏で、若い女工たちは何を奪われ、何を守ろうとしていたのか――。昭和1.6万字5 0 -
完結第10話
尋ね人が呼んだ母の旧姓
昭和33年の冬、夕食後の茶の間に流れていたラジオの「尋ね人」で、15歳の和夫は思いがけない名前を耳にする。 「旧満州より引き揚げた、旧姓・高橋文子さんを探しています」 それは、母の結婚前の名前だった。 さらに放送では、東京に住む19歳の女性が、文子を「母」と記憶していると告げられる。家族が凍りつく中、母は突然ラジオを消し、「知らない人よ」とだけ言って口を閉ざした。 翌朝、母は一枚の書き置きを残して東京へ向かう。 本当に母には、家族に隠していた娘がいたのか。なぜ戸籍にも記録がないのか。そして、戦後の混乱の中で文子がついた「ひとつの嘘」とは――。 ラジオから流れた一つの旧姓が、13年間閉ざされていた家族の過去を静かに開いていく。昭和1.5万字5 1 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5万字5 0