"片胸の息継ぎ" 第2話
顔を沈め、腕を伸ばし、脚をかす。息が必になれば、面からほんの瞬だけをして空気を吸う。それからまた何事もなかったように顔をへ戻していく。
最初は誰の泳ぎも同じに見えた。
ある曜までは。
その、初者用の番端のレーンに、の老がいた。い泳をかぶり、細い肩をからしながら、壁際にしがみついている。齢は70歳に見えた。
若い男性インストラクターが、その横で何度も同じことを言っていた。
「須賀さん、顔をげなくて丈夫ですよ。横です、横」
老は頷いた。
壁を蹴る。
腕。
腕。
回ほどをかいたところで、突然顔を正面へ持ちげた。
体が沈む。
慌ててをつき、きく咳き込んだ。
インストラクターが笑った。
「だから、を向いたら沈みますって」
「息ができん」
「吐いてないからです」
「吸わないとぬだろ」
「先に吐くんですよ」
老は満そうな顔をした。
律子はモップをかしながら、その会話を聞いていた。
インストラクターは自分ののにを置き、ゆっくり息を吐く真似をした。
「ので、全部吐いてください。空っぽにして顔を横へ向ければ、吸おうとしなくても勝に入ってきますから」
老は眉をしかめた。
「そんな都よくいくか」
「体は結構、勝にやってくれますよ」
律子のが止まった。
広告
体は勝にやってくれる。
妙な言葉だとった。
自分の体について、そんなふうに考えたことは度もなかった。むしろ体とは、こちらが毎注していなければ何をするか分からないものだった。
その夜、帰宅してシャワーを浴びたあと、律子は鏡のにった。胸の傷をいつものように度見て、すぐにパジャマを着ようとした。
その、ふと息を止めていることに気づいた。
理由は分からなかった。
ゆっくり吐いてみた。
肺のから空気がていった。
しばらくすると、識しなくても次の息が入ってきた。
当たりのことだった。
54、何億回もやってきたはずのことだった。
それなのに律子は、その夜初めて、自分の体が自分に命令されなくても次の息を吸うことを、議だとった。
須賀という老は、それから毎週曜と曜の夜に来た。初者向けの個レッスンを受けているらしく、午740分頃になるとい子と黒い着で番端のレーンに現れる。律子は識して見ているつもりはなかったが、姿がないはすぐに気づくようになった。
彼は驚くほど泳げなかった。蹴伸びをすれば5メートルほどむのに、腕をかし始めるとすぐに体が崩れ、息継ぎをしようとするたびにを正面へげて沈んだ。インストラクターの森本は何度も同じことを説したが、須賀は毎回「分かってるんだけどな」
広告
と言い、次の瞬には同じ失敗をした。
「分かるのと、体がやるのは別なんですよ」
ある夜、森本が言った。
須賀はプールサイドに両腕をかけ、荒い呼吸をしていた。
「では完璧なんだよ」
「が邪魔してるんじゃないですか」
「失礼な先だな」
「須賀さん、息するだけ必になるでしょう。吸わなきゃ、吸わなきゃって」
「息しないと困るだろ」
「だから、吸う方は体に任せてください。吐く方だけやればいいんです」
須賀は納得していない顔をした。
律子にも納得できなかった。
きるために必な息を、体に任せる。
あまりにも無責任な言葉に聞こえた。
それでも須賀はレッスンをやめなかった。毎回咳き込み、へを入れ、には「今はもう駄目だ」と言いながら、5分にはまた壁を蹴っていた。
律子は次第に、その理由が気になった。
70歳を過ぎてから泳を覚えなければならない事とは何だろう。健康のためなら歩でもいいし、膝が悪いなら無理にクロールをする必もない。会にる齢でもないだろう。
しかし、勤務に利用者へ私な質問をするわけにはいかなかった。
ある曜、更のにい泳が落ちていた。
名はかれていない。
ただ、律子にはすぐ須賀の物だと分かった。子の側に、油性ペンでさな黒い線が引かれていたのを何度も見ていたからだ。
受付へ届けようとしていると、廊から須賀が戻ってきた。