"地上二メートルから見上げる逆転の空" 第26話
(……親父)
卓郎は、ので静かに呼びかけた。
親父を追い越せたかどうかは、まだ分からない。
けれど、あんたがかけて命を削って遺してくれたものは、今もこうして、もっとい空へと続いてるよ。
たいが、卓郎の照った頬を優しく撫で抜けていった。
そのには、乾いた埃としいペンキの匂いが混ざりっていた。
、ずっと喉の奥にこびりついてれなかったあの臭い鉄錆の匂いは、もうどこにもなかった。
がけ、真の澄んだ青空の、川沿いにあるあの古いものづくりセンターの周囲に、真しいが掛けられた。
閉館の理由が建物の耐震性能だとった卓郎が、に対して自ら耐震補事の計画を持ち込んだのだ。の仮設費用は、浦組が全額無償で引き受けた。
薫の考案した狭法を用いれば、川の護岸と建物ののわずかな隙であっても、全かつ完璧にを組むことができた。
歴史ある建物の続が正式に決まった、の担当者は事務所を訪れ、卓郎と薫のを握りしめて何度も謝の言葉を述べた。
の解体を翌に控えた、事の最終の夕暮れ。
卓郎は薫に声をかけ、建物の根と同じさにある、最段の作業へと誘った。
に広がる、夕に照らされた造瓦葺きの懐かしい根。
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川面のきらめきも、の傾きも、が学だったあの頃の放課と、何つ変わっていなかった。
「……望さん。仕事の話では、ありません」
卓郎は作業着の胸ポケットから、さなベルベットの箱を取りした。
フタをけると、夕暮れのので、本の細のシルバーリングが静かに輝いた。
属の表面には、細いロープの縄目が周、繊細に彫り込まれていた。
――もやい結びの形だった。
「俺は、……面のから歩もけない、役たずのでした」
卓郎はリングを見つめたまま、言葉をつずつ噛みしめるように紡いだ。
「あなたと、向ちゃんがうちに来てくれてから……俺はもう度、いところに登れるようになった。母さんとも、笑って話せるようになった」
薫が息を呑み、胸ので両をギュッと握りしめた。
「……浦さん」
「この先も、ずっとと緒にいたいんです。……俺と、族になってくれませんか」
薫は指輪から線をさず、やがて、その細い指先がかすかに震え始めた。
「……私で、いいんでしょうか。度失敗して……子供もいる、こんな私で」
「向ちゃんも含めて、族になりたいんです。いや……向ちゃんがいるから、俺はもう度、空を見げることができたんだ」
のたいが、川面から吹きがっての作業着の裾を揺らした。
薫は唇をく引き結び、く息を吸い込んでから、涙の浮かんだ瞳でさく、けれど力く頷いた。
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「……会社にかなかった、あの」
薫は掠れた声で、静かに微笑んだ。
「私は、自分の奪われた名や特許のことよりも先に……毎朝の、あの事務所の景ばかりをいしていました。片のぶつかる音、鉛のる音……それに、あの濃すぎる渋いお茶のです。……あのにはもう、私のは決まっていたんだといます」
卓郎が震えるで薫の薬指に指輪を滑り込ませると、薫は涙をぬぐい、職の真剣な目線に戻ってまじまじとその指輪を観察した。
「……この彫、ご自分で?」
「型の図面は、俺が引きました」
「では……あなたの分の指輪は、私が作ります。仕事の腕では、まだあなたに負けたくありませんので」
その負けず嫌いな言い方が、あまりにも薫らしくて、卓郎は吹きすように声をげて笑った。
桜のが満を迎えたの良き、は静かに婚姻届を提した。
事務所でかれたささやかな祝いの席で、から駆けつけた代は、初めて会った向に自分の畑で採れた付きのきな参を両で抱えさせ、「よく来てくれたねぇ」と玄関先で泣いたり笑ったりして騒ぎしていた。
その夜の卓に並んだ参の煮物は、砂糖を使っていないのに驚くほど甘く、向は割り箸で突き刺したまま、何度も何度も美しそうにへ運んでいた。
あれから、が流れた。
限会社浦組の職はに増え、朝のには今も、角を丸く削った端材の段ボール箱が切に置かれている。
耐震補事を終え、美しく蘇ったものづくりセンターのでは、今も所の子供たちが歓声をげながら、を削り、さなや櫓を組みてている。利用料は、昔と変わらず無料のままだ。
卓郎のの薬指と、薫のの薬指には、互いが設計し、互いが削りした世界につだけの指輪が、現の陽を浴びて鈍く輝いている。
く引かれれば引かれるほど固く結ばれ、けれど解こうとえばいつでも優しく解ける、あの命綱の結び目。
「社! そろそろっすよ! 番てっぺん、誰が登りますか!」
トラックの荷台から、すっかり頼もしくなった田が笑顔で声をかけてくる。
卓郎と薫は顔を見わせ、声をして笑った。
番い所に、誰よりもいで旗をてる役目を、はこれから先も、誰かに譲るつもりは毛なかった。