"娘の十七万円を愛人に貢いだ夫の末路" 第2話
私は、の窓に座り、担当の員に事を説した。
私は、妻であることを証する分証を提示し、夫の座のおの流れを調べてもらうよう懇願した。
個報の壁はかったが、私の必の訴えと、夫婦の正当な確認であるという主張が通り、員は渋々ながらも調べてくれた。
そして、そこには、私の全くらない、恐ろしい事実が隠されていたのだ。
私は、員から提示された画面を見て、息を呑んだ。
そこには、私のらない、夫名義の隠し座がしていた。
そして、娘に送るはずの17万円のうち、16万8500円が、毎その座に流れていたのだ。
私は、めまいがするのをじながら、のロビーのソファにへたり込んだ。
私の名は、富という。
私は、し古な名の通り、厳格な庭で育った。
私の父は、とにかく厳格で、絵に描いたような堅物なだった。
父は、元の公で国語の教師をしていた。
父は、常に姿勢を正し、言葉遣いにも厳しかった。
私は、幼い頃から父の顔を窺いながら活していた記憶がある。
母もまた、そんな父のことをながら支える、昔気質の女性だった。
母は、父の言うことには決して逆らわず、歩がって歩くようなだった。
母は、父の厳しい態度を宥めながら、庭の平を保つことに必だった。
当然、娘である私への教育も、並抵の厳しさではなかった。
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今えば、それは昭の匂いが濃く残る、代で自由な教育方針だった。
「女の子はこうあるべきだ」という枠に、無理やり押し込められていたような気がする。
私は、子供の頃から、箸のげろしから言葉遣いまで、とても厳しく躾けられていた。
々の活ので、窮屈さや息苦しさをじることは、数え切れないほどたくさんあった。
友達が自由に遊んでいる姿を、羨ましく窓から眺めていたこともあった。
しかし、私は議と、父をむことはなかった。
私は、父がそれだけ私の将来を配し、私を真剣に育ててくれているのだと、子供に理解していたのだ。
父の厳しい言葉の裏には、器用ながらもいがあることを、私はじ取っていた。
そのため、期にはの反抗期はあったものの、私はきくをれることはなかった。
私は、両親の厳しいけれど温かいのおかげで、すくすくと真っ直ぐに育ったのである。
私は、学へ学し、自分の将来のを決める期になった。
私は、々と考えた末に、学の英語教師のにむことを決した。
厳格な父と同じ、教員というを選ぶことになったのだ。
しかし、私のい描く教師像は、父とは全く異なるものだった。
私は、自分の徒たちには、自分がわったような窮屈ないをさせたくなかった。
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私の教育方針は、英語という言語を通じて、子供たちが世界で自由に活躍できるような、のびのびとした教育をすることだった。
私は、徒の個性を尊し、笑顔の絶えない教を作りたかったのだ。
私は、を持って教壇にち、充実した々を送っていた。
しかし、気がつけば、私はあっというに30代になっていた。
仕事にになるあまり、結婚というものをし回しにしてしまっていたのだ。
そんな私が30代に突入した頃、両親から頻繁にお見いの話をめられるようになった。
父は、「そろそろを固めなさい」と、厳しい顔で私に言った。
それまで、私に全く恋経験がなかったわけではない。
しかし、親譲りの真面目すぎる性格が災いし、続きすることはなかった。
私は、遊び半分の付きいができず、なかなか「このだ」とえるようないいと会うことができなかったのだ。
私は、古い慣習であるお見いというシステムには、正直言って気がまなかった。
らない男性と、かしこまってお茶をむなど、息が詰まりそうだった。
しかし、両親をさせたいといういもあり、私は渋々ながらもお見いの席に座ることにした。
お見いの相は、直太という名の男性だった。
私は、ホテルのラウンジで彼と初めて顔をわせたのことを、今でも覚えている。
相の直太は、私にとって、第印象はとても「いい」