みかん小説
本棚

"母が隠した四十九枚の領収書" 第8話

の奥に、蔦の絡まる階建てのがあった。柱には錆びた真鍮の表札が掲げられている。 『梨医院 内科・児科』 その文字のに、油性ペンで乱暴に「閉院」とかれたプラスチック板が針で括り付けられていた。

チャイムを押したが、音は鳴らなかった。 格子戸のガラスをのひらで叩くと、奥の暗がりから引き戸をける音がして、すりの気配がづいてきた。

現れたのは、腰の曲がった柄な老だった。 毛玉だらけのカーディガンを羽織り、濁した目を細めて僕を見げている。には剪定鋏を持っていた。

「……往診はもうやっとらんよ。薬なら駅民病院へきなさい」 「梨昭ですね」 僕はポケットから、区役所の職員証ではなく、運転免許証をした。 『佐伯 航平』の文字を、老の目のに突きつける。

の濁った目が、その文字列を捉えた。 数秒のがあった。 鋏を持つ老が、微かに震えた。

「……佐伯?」 「夜にあなたが軽トラックで運び込んだ、の子供のことを聞きに来ました」

の喉が、さく鳴った。 彼は周囲のを油断なく見回すと、無言でを翻し、の奥を招きした。

案内された居は、の踏みもないほど古い医学やカルテの束が積みがっていた。障子は黄ばみ、埃の匂いに混ざって、古い消毒用エタノールの揮発がかすかに漂っている。

広告

は茶もさず、ストーブのの座布団にく沈み込んだ。

「静さんは、どうした」 老が最初に発したのは、その問いだった。

に、胃癌でにました」 「そうか。……逝ったか」 梨は目を閉じ、さく息を吐いた。驚いたでもなく、ただ待っていた通を受け取ったような平坦な声だった。

「敏夫から聞きました」 僕は畳のに膝をつき、老を見据えた。 「あなたがあの夜、体検案を偽造した。無縁仏の骨を使って葬の類を通し、本物の航平を戸籍ので殺した。そして、記憶を失った僕に、そのんだ息子の名をあてがった。……全部、本当ですね」

梨は返事をしなかった。ただ、細く乾いた指で膝の毛布を撫で続けている。 沈黙に耐えかねて、僕はを乗りした。

「答えてください! 僕は、自分が何者かもらずにきてきた! 母をし、母のために勉して公務員になった! でもその母にとって、僕は代わりに過ぎなかったんだ! 僕は誰なんですか! あの夜、を歩いていた僕は、どこの誰だったんですか!」

が爆発し、埃っぽいに僕の叫びが霊した。 老は顔つ変えずに、僕の顔をじっと見つめていた。その濁した瞳の奥に、れみとも諦めともつかない暗いが宿っていた。

「……おの名は、らん」 老の声は、掠れていたが瞭だった。

広告

「だが、おがどこから来たのかは、っている」

臓ががった。

っている……?」 「あの夜、おが背負っていた汚れたナップサックだ」 梨はがり、居の隅にある黒塗りの茶箪笥へ向かった。最段の引きしをけ、奥から埃を被ったの封筒を取りしてきた。 封筒の表面には、褪せたマジックで『平成 保管』とだけかれている。

梨はそれを、僕のの畳のに置いた。 「静さんはな、おに関するものをすべて捨てろと言った。靴も、も、鞄も、すべて焼いてにしてくれと頼んできた。……だが、医者としての業かね。これだけは、どうしても燃やすことができなかった」

封筒の紐を解いた。 からてきたのは、透なビニール袋に入れられた、のひらサイズのさなノートだった。 表に濡れて波打ち、の染みがこびりついている。

をめくった。 鉛で、拙い跡の文字がびっしりとき込まれていた。

もお父さんは帰ってこなかった。お母さんは部でずっと泣いている。ご飯は蔵庫のちくわだけべた』 『 気が止まった。暗くて宿題ができない。お母さんが、もう全部嫌になったと言ってった。鍵は閉まっていなかった』 『 しかない。お腹が痛い。アパートのの自販を探したら、百円玉が枚あった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: