"家出と呼んだ警察を私は許さない" 第11話
スー、スーという、浅く、張り詰めた呼吸の音。
その息遣いを聞いた瞬、の目から涙が溢れした。 教えられなくても分かった。 かつて、自分の腕ので眠り、をして荒い息を吐いていた、あの赤ん坊の、あのの呼吸そのものだった。
「……航平?」
掠れた声で、名を呼んだ。
受話器の向こうで、息が止まる気配がした。 そして、信じられないほどく、太くなった、しかし途方もなく震えている男の声が、拙い、ぎこちない本語で返ってきた。
『……おかあ、ちゃん……?』
「航平……っ! 航平やね! 航平なんやね!」
『お母ちゃん……お母ちゃん……っ!』
その瞬、言葉は消えった。 受話器を挟んで、はただひたすらに泣き続けた。 男の慟哭と、老いた母の嗚咽が、万キロの距を超えて混ざりう。 太くなったその声の奥底に、歳のあのの、泣き虫で優しかった息子の魂がそのまま息づいていた。
。 どれほどが残酷に流れろうと、どれほど名や国籍を奪われようと、血の繋がりは、母と子の魂の結びつきは、何ひとつ擦り減っていなかったのだ。
泣きじゃくる航平の声を聞きながら、は受話器を両でく抱きしめ、何度も、何度も繰り返した。
「怖かったやろ……ひとりにして、すまんかったなあ……。お母ちゃん、ずっとここにおったよ。も忘れんと、ずっと待っとったよ……!」
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*
それから、の文通と話の々が始まった。
航平の本語は、最初は単語を拾い集めるような拙いものだったが、と話すたびに、驚くべき速度で記憶の底から蘇っていった。 に度、決まったの話。 はそのになると、朝から割烹着を着て話のに正座し、呼びし音が鳴るのを待った。
話で、航平はしずつ、自分の今の暮らしを語ってくれた。 福祉施設で働き、同じ境遇の々を支援していること。 そして、数に結婚したこと。 妻はアメリカまれの系世で、とても優しく理解のある女性だということ。
「……航平、子供はおるんか」 あるの話で、が恐る恐る尋ねた。 受話器の向こうで、航平がし照れたように息を呑む気配がした。
『うん。歳になる女の子がいるよ』
「そうか……おがお父さんになったんか。嬉しいなあ。……お名は、なんて言うん?」
しの沈黙の、航平が静かに、慈しむように言った。
『英語の名もあるけど、本の名をつけてあるんだ。……“志津(しづか)”って言うんだよ』
は、息を呑んだ。 胸の奥が、い奔流で満たされていく。
「志津……」
『お母ちゃん、覚えてる? 僕が子供の頃、お母ちゃんが番仲良くしてた、お隣の志津さん。僕がをした、林檎をすりおろして持ってきてくれた。お母ちゃん、よくそのの話をしてくれたでしょう。
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だから、僕……最初の子供には、その名をもらおうって決めてたんだ』
受話器を握るのが震え、畳のに涙がぽたぽたと落ちた。 覚えていてくれたのだ。 自分が何気なく語った、貧しかった々のささやかないを。 い異国ので、名すら奪われていた息子が、母の言葉を、母のした々の記憶を、切に抱きしめてきてきてくれたのだ。
「航平……ありがとう。ええ名や。本当に、ええ名をつけてくれたねえ……」
*
そして、20054。 桜の季節が終わり、緑が港町を包み始めた頃、航平が族を連れて本へ帰ってくるが決まった。
らせを受けたから、はほとんど眠ることができなかった。 のを掃き清め、傾いた柱を拭き、航平の部の畳を何度も雑巾がけした。 箪笥の奥から、あのの毛糸の肌着と、に買った黒い学ランを取りし、柔らかなの差しに干した。
当の朝。 は午に起きた。 のあの朝と、全く同じに。 台所にち、丁寧に油を引いたフライパンで、卵をつ焼いた。 のエッジをカリッと焼き、黄は絶対に崩さない、完璧な半熟。 それを清潔なプラスチックのタッパーにそっと移し、ましてから蓋をして、呂敷に包んだ。
関国際空港の国際線到着ロビー。 迫田刑事が気を利かせてをしてくれ、はロビーのフェンスにすがりつくようにしてっていた。
には、あの呂敷包みがしっかりと握られている。