"残高220円の介護嫁" 第10話
作業着の男が、舌打ちをしてバールを引いた。
「おいおい、聞いてねえぞ。権利関係で揉めてる物件じゃねえか。しかも役所のがヤミに追われてるって? 冗談じゃねえ」
「待て! 待ってくれ! なら倍払うから!」
「断るぜ。俺たちも商売あがったりになりたくねえんだよ。具代と張費、万だけ置いていくからな。じゃあな」
コツコツと、全靴の荒々しい音が階段を駆けりていく。
取り残された健の、荒い呼吸の音だけが、暗い廊に残された。
ガチャリ、とドアチェーンをかけたまま、私はドアをわずかセンチだけけた。
隙から覗く健の顔は、気を通り越して、のように青ざめていた。
ネクタイは曲がり、髪は乱れ、目には充血した血ったが宿っている。
「……お、どこまでってる」
健の声は、をうような怨嗟に満ちていた。
「お義母さんの通帳も、カレンダーの裏のメモも、納戸の箱も。すべて見ました」
「……返せ」
健がドアの隙に指を突っ込んできた。
爪が剥がれそうな勢いで、鉄の扉をこじけようとする。
「返せよ! それはお袋の遺品だ! 松本のものだ! の分際でのの通帳を漁ってんじゃねえよ棒猫が!」
「はあなたです」
私は徹に言い放った。
「母親が飢えと病気で苦しんでいる横で、をかすめ取り、をヤミに売りばそうとしていたあなたが、どので族を名乗るのですか」
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「うるさい! うるさい! うるさい!」
健は狂ったようにドアを側からガンガンと叩いた。
「俺は公務員だぞ! エリートなんだよ! こんなボロアパートに縛り付けられて、老いぼれの糞尿の始末でを終えてたまるか! 絵里奈との結婚だって決まってんだ! あいつの実は港区の業医だぞ! 俺があそこで認められるためには、のタワーマンションのが必なんだよ! おみたいな底辺の清掃婦が、俺の輝かしいの邪魔をするな!」
男のから溢れたのは、救いようのない虚栄と、肥化した自己の残骸だった。
私は憐れみすら覚えず、ただ静かに健を見ろした。
「曜の朝」
「……あ?」
「親族を全員、ここに呼びなさい。あなたの弟の浩司さんも、妹の恵子さんも。そして、その絵里奈というお嬢さんも」
健の狂った瞳が、怪訝そうに細められた。
「全員ので、お義母さんが本当に遺したものを、私のから示します」
「……母さんが遺したもの?」
「ええ。あなたが最も欲しがっている、このの権利の真実です。曜のまで、私は歩もこの部からません。もしそれまでに再びドアノブに指本でも触れたら、その瞬に区役所の懲罰委員会へすべての証拠を持ち込みます。分かりましたね」
健は息を荒げながら、数秒、私を睨みつけた。
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その瞳の奥で、傲な計算が再び蠢き始めるのが分かった。
——親族ので?
——親族は全員、俺の方だ。男嫁の美奈子なんて、ただの居候として全員で見してきた。
——親族会議をけば、数の力でこの女をねじ伏せられる。
そう考えたのだろう。
健の元が、わずかに醜く歪んだ。
「……いいだろう。受けてってやるよ」
健はスーツの襟を正し、唾を吐き捨てるように言った。
「曜のだ。浩司も恵子も、叔父さんたちも全員呼んでやる。親族全員ので、おがどれだけ卑しい寄虫かを暴きてて、座させて着の着のままで叩きしてやるからな!」
健は踵を返し、今度こそ股で廊を歩きっていった。
ざかる音を聞きながら、私はドアを完全に閉め、頑丈な補助鍵を内側からろした。
部のに、再び訪れたい沈黙。
私はエプロンのポケットから、義母の古いみずほの通帳を取りした。
残、百円。
その数字を指先でなぞりながら、私は暗い居の仏壇を見つめた。
「お義母さん」
誰もいない空に、私の声が静かに溶けていく。
「準備を、始めますね」
曜まで、あと。
私は台所の片隅にしゃがみ込み、古い固定話の受話器を取りげた。
ダイヤルするのは、義母がノートの端に遺していた、たったひとつの弁護士事務所の番号だった。
曜、午分。
品川の空は、分いのに覆われ、湿り気を帯びた初のが吹き抜けていた。