"名前を消された入園届" 第25話
「陽菜、おけて。あーん」
さな製のベビーチェアに座った陽菜が、さくちぎったパンを、器用にさな歯でハムハムと噛み砕いている。 「おいち」と言って、細い指を私のセーターの袖に擦り付けて笑った。
「はい、お茶もんでね」
ストローマグを渡すと、陽菜は両でしっかりと抱えてゴクゴクと喉を鳴らした。
壁のフックには、紺のさな通園リュックが掛けられている。 松で買った、千百円のリュック。 そのフロントポケットのい名札布には、黒の油性マジックで、私のによる几帳面な文字がかれていた。
『さとう ひな』
私の旧姓。 先、弁護士を通じて婚調が成し、戸籍の変更続きがすべて完した。 康平は、消費者融への返済が滞ったことで勤務先の古販売会社を懲戒解雇され、現は親族の元を転々としながら雇いの解体現で働いていると、弁護士からの事務報告にあった。 志織も、役所からの返還命令から逃れるためにアパートを引き払ったが、所が特定され、与の差し押さえ続きがんでいるという。 とも、もはや私のにはミリの関わりもない、いの底のだった。
ピピピ、ピピピ。
キッチンのタイマーが鳴った。 午分。
「よし、陽菜。お着替えしようね」
私は陽菜にの黄いフリースを着せ、さな赤い靴を履かせた。
広告
靴の爪先には、ひとつ付いていない。 昨夜、私が洗面所で丁寧にブラシをかけ、干ししておいた靴だ。
玄関の引き戸をけると、凛とした朝の空気が頬を撫でた。 空はいに染まり、くの線の向こうから、始発のるガタゴトという規則正しい音が響いてくる。
アパートの廊を歩いていると、階の駐輪に、見慣れたの軽トラックがまっているのが見えた。 荷台の錆びた、古いハイゼット。 運転席の窓がしだけき、から缶コーヒーの湯気と、い煙の煙が漂っていた。
父だった。
週に回、私がベーカリーの朝シフトに入る、父は何も言わずに軽トラをらせ、陽菜を保育園へ送るのを伝ってくれていた。 「ついでだ」としか言わないが、父のむアパートからはで分もかかる距だった。
「じいじ!」
陽菜が私の腕のでさなを振った。 軽トラのドアがき、作業着姿の父がりてきた。 父のい顔の筋肉が、陽菜の笑顔を見た瞬、ほんのしだけ緩むのを私はっていた。
「……おはよう、お父さん」
「おう」
父は陽菜をひょいと抱きげると、自分の逞しい腕のに収めた。
「パン、遅刻するぞ。乗れ」
「うん」
軽トラックの助席に乗り込む。 内には、使い込まれた具の油の匂いと、微かな缶コーヒーのりが満ちていた。
広告
以のような、息の詰まる緊張はどこにもなかった。 ただ、臭く、器用で、けれど絶対に壊れることのない、本当の活の匂いだった。
軽トラがゆっくりとりす。 線沿いのフェンスの向こう、枯れの桜のの枝の先に、固くさな、の蕾がさく膨らみ始めていた。
私ののには、も、豪勢な暮らしも何もない。 毎のパート代の取り万と、父が折届けてくれる野菜の段ボール。 切り詰めた計簿と、すり減った靴底。
けれど、私のは、今、違いなく私自の力で面を踏みしめていた。 誰かの顔を伺って息を殺す朝も、誰かの嘘に怯えて震える夜も、もう度とやって来ない。
軽トラの窓をしだけけると、たさのに、微かなとの匂いを孕んだしい季節のが吹き込んできた。 私は胸いっぱいにその空気を吸い込み、助席の窓から、広がる青空を見げた。