"奪われた十八年の通帳" 第3話
「会、今も無事に乗り切れそうです。これもひとえに、会の温かいご指導のおかげで……」
「無事、か」
田会は敏之の言葉を遮るように、く息を吐いた。 その目は、敏之のおべっかを見透かしているようにややかだった。
「今は、曲峠の事故があったからな。うちの組からも、若いのが、底に落ちた。無事などという言葉は、俺のからはんよ」
その瞬、敏之のがわずかに止まり、徳利の注ぎがお猪の縁にカチリと当たった。 玲奈の顔からも、瞬にして嬌のある笑みが消え、爪を噛むような仕を見せた。
半の、曲峠の事故。 敏之が配した過積載の軽トラが、夜のの峠でブレーキを失い、ガードレールを突き破って転落したのだ。 運転していたのは、玲奈の弟だった。 度の障害があり、敏之が無断で、雇いの運転として使っていた男だ。 警察の調べでは「運転の居眠りによる単独事故」として処理されたが、業界内では、備良のを無理やりらせたのではないかという黒い噂が燻り続けていた。
「……あ、あの件は、本当に痛ましいことで。ですが、監査の方も問題なしと結論がましたので……」
敏之が額に脂汗を浮かべながら弁解をねる。 田会はそれには答えず、敏之から徳利を受け取ると、ゆっくりと部のを見渡した。
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酒の匂いにまみれた男たち。 壁に貼られた全週の黄ばんだポスター。 そして、部の最も暗い隅、ビールの空き箱のにを縮めて座っていた、私の姿に。
会の線が、私のを通り過ぎようとした。
そして、止まった。
ぴたりと、が凍りついたように。
田会の目が、これ以ないほどに見かれた。 眉のい皺が引き攣り、赤ら顔からサーッと血の気が引いていくのが、暗い部の隅からでもはっきりと分かった。
「……お…………」
会の喉から、掠れた空気のような声が漏れた。 彼がに持っていたい陶器の徳利が、刻みに震え始める。
「会? どうかされましたか?」
敏之がいぶかしげに顔を覗き込んだ、その瞬だった。
ガシャン、とく鋭い音が、タバコの煙を切り裂いた。
会のから滑り落ちた徳利が、油染みたリノリウムのに叩きつけられ、無残に砕け散ったのだ。 ちる清酒のいアルコールの匂い。 割れた破片のから、透な液体が、私の元に向かってツツツとうように広がっていく。
部の喧騒が、嘘のように消えった。 い男たちが、斉に息を呑み、ステージのを見るように固まっている。
田会は、に散らばった酒にも目もくれず、ただまっすぐに、私を見つめていた。 その目は、この世の者ではない何かを見ているかのようだった。
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震える唇が、マイクも通さないのに、部の隅々まで響くような異様な瞭さで、ある名を紡ぎした。
「……ま、真壁の……お嬢さん……? なぜ、こんな……」
その言葉がた瞬、私の横にいた敏之の表が、引き攣ったように歪んだ。
「は……? まかべ……?」
敏之が抜けな声を漏らし、私と会の顔を何度も見比べた。
部の空気が、さらに段、え込む。 誰もが事態をみ込めずにいた。 なぜ、この湾岸の帝王と呼ばれる男が、汚れたドカジャンを着てビールの空箱を運んでいるだけの、しがない請け主任の増女に向かって、「お嬢さん」などと呼んだのか。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
ここで何かが狂えば、、私が歯をいしばって守り続けてきた常の蓋が、吹きんでしまう。 まだだ。 今、この所で暴発させるわけにはいかない。
私はパイプ子から静かにちがると、膝のの埃を払い、歩へた。 表は切、かさない。 ただの、気の悪いほど従順な、疲れ切ったの妻の顔のままで。
「会さん。恐れ入りますが、違いでございます」
私の乾いた声が、静まり返った詰所に落ちた。 そして、背筋をまっすぐに伸ばし、く、寸分の隙もない所作でをげた。
「私は、配主任をしております佐藤敏之の妻の、登紀子と申します。主が頃から変お世話になっております」
顔をげたとき、私は田会の目を、ほんの数秒だけ、射抜くように見つめた。