"奪われた十八年の通帳" 第14話
マフラーから吐きされるい蒸気が、凍てつく朝の空気に混ざり、ゆらゆらとちる。 運転席側のドアがき、敏之がりてきた。 着ているのは、仕てろしのタグを昨切ったばかりの、鮮やかな青のゴルフ用ダウンジャケットだった。 胸元にはのスポーツブランドの刺繍。 首元には、昨夜のっぽいバニラと、男性用の柑橘系コロンが入り混じった、を突く匂いがべっとりとまとわりついていた。
「おい、登紀子」
敏之はトランクに、自然なほど軽いナイロン製のボストンバッグを放り込みながら言った。
「千葉の荷き点検と、親会社の役員連との打ちわせだ。の晩まで戻らねえからな。母さんの飯との世話、抜かりなくやれよ。それから、のデイサービスは休みだからな。にへばりついて、しっかり見張ってろ」
「……ええ。気をつけてってらっしゃい」
私はドカジャンのポケットに両を突っ込んだまま、暗い玄関先にち、ただ静かに頷いた。
「わかってりゃいいんだよ」
敏之は私を瞥すら叩きつけず、運転席に滑り込み、アクセルを踏んだ。 クラウンが砂利を蹴て、国号線へと流していく。 テールランプの赤い残が、の空のたい濁りのに溶けて消えるまで、私はそのを歩もかなかった。
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千葉の営業所。 役員との打ちわせ。 すべてが、からまかせののような嘘だった。
あのキャビネットの奥のガラケーには、昨夜の未、伊豆の級温泉旅館『亭』の予約確認メールが届いていた。 客呂付きれ、泊万千円。 名。 予約者の名は『佐藤敏之』。
私は踵を返し、のへ入った。 居の万から、静子のいびきが聞こえてくる。 枕元には、昨夜の残りの麦茶を入れた吸いみと、処方されたばかりの眠導入剤の空き殻。 夕方まで、彼女が自力で起きがることはない。
私は洗面台の黄ばんだ鏡のにち、ので顔を洗った。 タオルで滴を拭うと、鏡のに、やつれ果て、頬の肉が削げ落ちた歳の女がいた。 目のには濃い隈。 髪の毛は艶を失い、乱暴にろで束ねられている。
私は着続けた防寒ドカジャンを脱ぎ捨て、タンスの奥から、数に買ったきり袖を通していなかった、シンプルな濃紺のウールコートを取りした。 防虫剤の匂いが微かにするが、破れも毛玉もない。 擦り切れた作業靴を脱ぎ、押し入れの段ボールから、黒い革のフラットシューズを引っ張りした。 を入れると、革がひび割れそうなほどくなっていたが、にまみれた全靴よりは、遥かにましだった。
午分。
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私は国沿いのバスから、港湾部へ向かう線バスに乗り込んだ。
内には、夜勤けの港湾労働者やコンテナヤードの警備員が数、背を丸めて座っていた。 窓ガラスは内側の呼気でく曇り、指先で触れるとたい滴が垂れた。 バスがきく揺れるたび、私のバッグの底で、ある物がい音をてた。
昨夜、スクラップ置きのブルーシートのから回収した、あの黄いフェンダーパネルの破片。 敏之のクラウンのい塗料がくい込んだ、数センチ方の歪んだ鉄屑。 それは聞に何にも包まれ、私の膝ので、のように沈んでいた。
午分。 終点の「第突堤」でバスをりると、烈な潮が真正面から吹きつけてきた。
錆びついたガントリークレーンが、油のに向かって巨な首をもたげている。 見渡す限りのコンテナの壁。 型トレーラーが激しい切り音と共に砂を巻きげて通り過ぎていく。
突堤の付け根に建つ、築の鉄筋コンクリート階建てのビル。 壁のモルタルは潮で剥がれ落ち、鉄骨の階段には茶い錆が浮きている。 玄関の錆びた真鍮プレートには、かすれた文字でこう刻まれていた。
『港運株式会社・臨港管理事務所』
自ドアは壊れており、でいアルミの扉を横に引く。
リノリウムの廊には、使い古されたモップの乾きの匂いと、タバコのヤニの匂いが染み付いていた。