"奪われた十八年の通帳" 第26話
「嘘だあああ!!」
静子が絶叫した、まさにその瞬だった。
ガラガラと、玄関の引き戸が激しい音をてていた。
廊から現れたのは、幽霊のような姿の男だった。 ネクタイは引きちぎられ、スーツはと埃にまみれ、頬には々しい引っかき傷。 柄を拘束される直、警察の隙を突いて逃げしてきたのか、その元は靴すら履いておらず、だらけの靴のままだった。
「ひ……敏之……!?」
静子が叫んだ。
敏之は居の入りで力なく膝をつき、肩で激しい息をしていた。 その目は血り、焦点がっていない。
「敏之! あんた、どうしたんだいその顔は! この女の言ってることは嘘だろ!? あんたは本社の課になったんだろ!? あたしを辺のホームに入れてくれるんだろ!?」
静子が子を激しく漕ぎ、息子の元へ詰め寄った。
敏之はゆっくりと顔をげた。 そのから漏れたのは、獣のような、濁ったうめき声だった。
「……うるせえよ」
「え……?」
「うるせえんだよ、ババア!!」
敏之が突然、ちがりざまに静子の子を力任せに蹴ばした。 子が横転し、静子は畳のに無様に投げされた。
「全部テメエのせいだ!!」
敏之は狂乱し、倒れた母親を見ろして唾を吐き散らした。
「テメエが毎毎、登紀子を虐め抜いてのを獄にしやがったから、俺はで息が詰まりそうだったんだよ! テメエのオムツ代を稼ぐために、俺はあいつらに唆されて沼に落ちたんだ! 辺のホームだと!? 笑わせんじゃねえ! テメエなんざ奥のボロで野垂れねばよかったんだよ!」
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静子は畳にいつくばったまま、信じられないものを見るように息子を見つめていた。 だが、次の瞬、彼女の顔がりと裏切りで般若のように歪んだ。
「あんた……! 実の親に向かって、なんたる言いだい!」
静子は傍らに転がっていた点杖を両で掴むと、事の馬鹿力でちがり、敏之の背に向かって振りろした。
バコッ!
いゴムの触が、敏之の肩を砕かんばかりに打ち据えた。
「親孝者が! あたしの老を返せ! あたしのすき焼きの肉をどうしてくれるんだよ! この穀潰しが!」
「痛えな! やめろ、クソババア!」
敏之が静子の腕を掴み、はテーブルにしがみつくようにして取っ組みいを始めた。 互いの顔を殴りい、髪をむしり、醜い罵声を浴びせう。
、「優秀な息子」と「誇りい母」という仮面を被り、私を奴隷のように踏みつけにしてきたつの怪物が、そのの空っぽな欲望を剥きしにして、互いをい破りっていた。
ガシャーン!!
の体が激しくぶつかった拍子に、ポータブルコンロごと、鉄鍋がひっくり返った。
煮えたぎる黒い割りが、ジュージューと音をてて畳に染み込んでいく。 最級のり肉が、甘辛いのようになってに散らばり、い脂の煙がち込めた。
「い! いよ!」
ねた湯を浴びた静子が鳴をげ、敏之はそのに倒れ込んで呻いた。
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獄だった。 だが、それは私が作った獄ではない。 彼らが、自らの傲と嘘と欲で薪をくべ続けてきた業が、最に自分たちの元を焼き尽くしただけの景だった。
私は、その浅ましい争いから静かに線を逸らした。 胸の奥には、片の同も、片のすら湧いてこなかった。 ただ、果てしない、たいが吹き抜けていくだけだった。
私は部の隅に置いてあった、自分のさなボストンバッグをに取った。 つの段ボール箱は、すでに運送会社に集荷の配を済ませてある。
「……それでは、失礼いたします」
私が静かに背を向けると、畳ので転がっていたが、ハッときを止めた。
「と……登紀子! 待て! くな!」 「登紀子さん! あんた嫁だろ! あたしを置いていくんじゃないよ!」
背から、絶望の淵からいがろうとするようなの絶叫が響いた。 だが、私のが止まることは、度となかった。
玄関のにり、古いフラットシューズを履く。 駄箱のに、プレハブの鍵を静かに置いた。
ガチャリ。
ドアノブを回し、へる。 背でトタン戸が閉まった瞬、の叫び声は、たい潮の音にかき消されて、度と届かなくなった。
国号線にると、夜の帳が完全にりていた。