"毒を運ばされていた私" 第1話
畳のに転がっていた湯呑みから、め切った濁った液体が、茶く染みを作っていた。 膝を曲げた自然な姿勢のまま、清原フミさんは直していた。
築を超える造の都営団。 階段をるたびに、どこかの部から漏れる煮沸した油の匂いと、コンクリートの湿気を含んだカビの臭いが腔をつく。 エレベーターなど最初からない。すりは赤錆が浮き、触れると指先にざらりとした鉄が残る。
訪問介護ヘルパーとしてこの団を担当してになる。 私が担当する利用者の半は、寄りのない単の齢者だ。 彼らにとって、週に度訪れる私のエプロン姿だけが、界とつながる唯の細い糸だった。
そのでも、清原さんは特別だった。 いつも背筋をさく丸め、褪せた綿入れ半纏を着て、私の顔を見ると皺くちゃの顔をほころばせる。
「咲子さん、いつも悪いわねえ。私みたいな寄りのために」
言葉遣いは丁寧で、の部の老が折見せる介護職へのつ当たりや理尽な求は切にしなかった。 活保護とわずかな遺族で暮らす清原さんの部は、畳と畳半の。 具らしい具もなく、壁には黄ばんだカレンダーが枚掛けられているだけだった。
「寄りがないってのは、気楽なもんですよ」
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そう言って笑う清原さんのために、私は決められたよりもしだけ丁寧にを拭き、しだけく話し相を務めていた。 自治会の役員たちも、を揃えて彼女を褒めていた。 「清原さんは本当に控えめで、慎ましいだ」と。
の午、いつものように居の掃除をかけていたのことだ。 清原さんは万の端に座り、湯呑みを両で包むようにして、ぼんやりと窓のの曇り空を眺めていた。
「清原さん、お布団の横、し拭きますね。埃が溜まってますから」
私が雑巾をに、布団の脇に屈み込んだ瞬だった。
ガサリ、と乾いた音がした。
見ると、畳の縁と製の敷居の隙に、粘着力のまった古い布ガムテープの端が剥がれかけていた。 踏みつけられたせいで黒ずみ、糸くずが毛羽っている。 何気なく指を伸ばし、そのテープの端を元に戻そうとした、そのだった。
「触らないで!」
をつんざくような鋭い声が、狭い部に響いた。
臓がねがった。 清原さんのから、湯呑みが畳に落ち、鈍い音をてて転がった。 び散った黄のお茶が、私のズボンの裾を濡らす。
清原さんは、両膝をに擦りつけるようにして、うような姿勢で私の元にびついていた。 その枯れのように痩せ細った指先が、私の首を鷲掴みにしていた。
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痛いほどの力だった。 を過ぎた老婆の力とは到底えなかった。 骨が軋む触とともに、彼女の指が私の肌にい込む。
「……あ、あの、清原さん?」
顔をげた私の目にび込んできたのは、見たこともない表だった。 いつもの温で垂れがった目尻は引きつり、見かれた瞳の奥に、濁った、徹なが宿っていた。 呼吸は荒く、元が刻みに痙攣している。
沈黙が、のにく落ちた。
台所のの蛇から、ポタリ、ポタリと滴が落ちる音だけが、異様なほどきく聞こえた。
数秒、清原さんはハッとに返ったように瞬きをした。 指先から力が抜け、首に残った赤黒い指の跡がじんじりとを帯びる。
「……ごめんなさいね、咲子さん」
清原さんは、元の枯れたような優しい声に戻っていた。 しかし、その元は自然に張っている。
「昔から、そこは隙が入ってきてね。自分で適当にテープを貼ったんだけど……みっともないから、見られたくなくて」
「……そう、ですか。びっくりしました」
「ごめんなさいね。驚かせちゃって。ほら、お茶、こぼしちゃったわね。拭かないと」
彼女は自分でちがり、台所から雑巾を持ってくると、震えるで畳を拭き始めた。 だが、その背はらかに張っていた。 そして何より、彼女は決して、そのガムテープの貼られた所から体をそうとはしなかった。
そのの訪問を終えて団の階段をりるも、首の鈍痛が消えなかった。