"十年前に死んでいた夫" 第12話
私はそれを握りしめ、トタンの引き戸のにった。
呼び鈴など、どこにもなかった。 私は息を吸い込み、の甲で枠を叩いた。 乾いたい音が、川にかき消されそうになりながら響く。
「ごめんください」
返事はない。 ただ、戸の奥で、ギシ、と畳がきしむような微かな物音がした。
「ごめんください。……川瀬さんのお宅でしょうか」
沼田老から聞いていた、災で被害に遭った女の名だった。 、秒の沈黙のあと、を摺りで歩く気配がづいてきた。 内側の掛けが、カチャリとされる。
隙がセンチほどいた。 そこから、の老女の顔がのぞいた。
の頃は、代半ばを優に超えているだろう。 髪は梳かされることもなく乱れ、く刻まれた皺の奥にある瞳は、濁った沼のようにを失っていた。 着古した半纏(はんてん)の襟元から、枯れ枝のように痩せた首筋が見えている。
「……誰だね」 しゃがれた、刃物のように鋭い声だった。
「夜分遅くに申し訳ありません。京から参りました、佐伯と……いえ」 私は途で言葉をみ込み、をげた。 「京から参りました、久恵と申します。突然押しかけて、本当に申し訳ありません」
老女は眉をひそめ、私の着ているコートや靴を、からへとたく舐めるように見回した。 その線には、見らぬ来訪者に対する警戒を通り越した、世全体に対するい憎悪と拒絶のが宿っていた。
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「京……? らんね。京なんかに、りいはおらん。物売りなら帰っておくれ。うちにはなんぞ銭もないよ」
老女が戸をピシャリと閉めようとした。 私はわず、隙に自分のを差し入れた。 枠が指の背を挟み、鈍い痛みがったが、を引かなかった。
「お待ちください! お願いです、川瀬フミさんですね? ……志保さんの、お母様ですね?」
その名をした瞬、老女のきが凍りついた。 戸を引く力が、ぴたりと止まる。 隙から覗く目が、信じられないものを見るように見かれた。
「……お、誰だ」 声の温度が、気に氷点までがった。 「どうして、あの子の名をってる。……警察か。役所のか」
「違います。私は……」 私は痛む指をそのままに、ポケットから彫りの鳥を取りした。 そして、いた戸の隙から、老女の目のに差しした。
「これを見ていただけないでしょうか」
暗い裸球のが、掌ののさな桜のを照らしした。 滑らかに磨かれた尾羽、細かく鱗のように削りされた背。
老女の呼吸が、ヒッ、と止まった。 その濁った瞳が、鳥の姿を捉えたままかなくなった。 老女の乾いた唇が、刻みに震え始める。
「それ……」 老女の声がかすれた。 「それを……どこでに入れた。どこから盗んできたんだい!」
「主が……」 私が言いかけた瞬だった。
老女の表が、突如として狂気のようなりに歪んだ。
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戸が勢いよく引きけられたかとうと、老女はにてかけてあった箒(たけぼうき)をひったくり、私の顔めがけて振りろしてきた。
「帰れッ! 帰れ、帰れ、帰れ!」 乾いたの枝先が、私の頬と額を激しく打った。 「あの男の内か! よくもこの敷居を跨げたもんだ! 殺し! 恥らず! あの子をあんな体にしておいて、今さら何の用があって現れた! 帰れッ!」
容赦のない打撃が肩や腕にり注いだ。 私はずさりし、でぬかるんだ面にを取られて、尻餅をついた。 がコートの裾を濡らし、膝がたさに震える。 老女は息を荒らげ、箒を振りげたまま、鬼のような形相で私を見ろしていた。 その肩は激しくし、乱れた髪が夜に逆っていた。
「度と面を見せるなって言ったはずだ! あの男がんだって、骨の髄まで呪ってやる! あの子の青を返せ! あの子の体を返せ! ていけッ!」
叫び声が、暗い川面に霊した。 、この粗末なので、たったで煮詰め続けてきた怨嗟の炎だった。 誰にもぶつけることのできないまま、のたいので燃やし続けてきた、母親の血の叫びだった。
頬から血が滲んでいた。 のトゲが引っかかったのだろう、ピリピリとした痛みが肌を刺す。 だが、私はちがらなかった。 逃げそうともしなかった。