"十年前に死んでいた夫" 第16話
彼が自分の名を捨て、佐伯孝之というの仮面を被った、まさにそのに、彼が救えなかった女は息を引き取っていたのだ。
彼は、しない幽霊に向かって、、を送り続けていた。 しない女のために、自分の体を削り、夜の救急窓で偽名を告げ、全額自費の薬を買い、ボロアパートの片隅で、血を吐くようないで計の歯を直していたのだ。
『久恵さん、ありがとうね』 ぬ際、夫が私に言った言葉が蘇る。 『すまないね。……私みたいなが、こんなに温かい所にいて、いいはずがないのに』
彼は、自分を許すことが怖かったのだ。 幸せになることが、罪だったのだ。 だから、私というと会い、温かい庭のぬくもりをればるほど、彼は裏でより過酷な罰を自分に課さなければならなかった。 それが、あの毎の万円であり、名もなきとしてのき方だったのだ。
「あのは……」 私の喉から、血の混ざるような声がた。 「主は、何のためにんでいったんですか……」
フミさんは答えなかった。 ただ、え切った畳ので、縮こまって泣き続けていた。
では、夜のがの鉄扉をガタガタと揺らしていた。 暗黒の川が、たいへと向かって流れていく。
私は、ポケットのの彫りの鳥を取りし、仏壇の、志保さんの骨壺のにそっと置いた。
広告
さな桜の鳥は、ろうそくの灯りを浴びて、静かに羽を休めていた。
だが、私ののには、まだつの巨な疑問が残されていた。
志保さんがくなっていたことをらなかったとしても——なぜ夫は、最の最まで、私に真実を打ちけてくれなかったのだろう。 息を引き取る直、救急を呼ぼうとした私のを必で押し留め、 『このままでいい……佐伯としてなせてくれ』 と、掠れた声で懇願したあのの瞳。
あれは単なる罪の識だけだったのだろうか。 、私を騙し続けてきた男の、最のだったのだろうか。
違う。 あのの目には、もっと別の、私に対するい何かが宿っていた。 それを確かめなければ、私はあのの骨を、この世のどこにも埋めてやることはできない。
私はフミさんに々と礼し、のついた靴を履いた。 振り返ることはしなかった。 漆黒のに包まれたを、私は京へ向かって、再び歩き始めた。
京へ戻る始発の内は、底えがした。
吊り革が乾いた属音をててさく揺れ、窓のには夜けの暗い田園帯が流れていた。 でぬかるんだを歩き続けたせいで、靴の爪先はすっかり固くなり、が乾いてく浮きがっている。 コートの裾はたく湿り、箒で打たれた頬のあたりが、を持ってジンジンと痛んだ。
広告
だが、私ののは、恐ろしいほど澄み渡っていた。
「輪敬」
胸の内で、その文字を噛みしめる。 彼は殺しでも、卑劣な逃犯でもなかった。 のの夜、のと煙ので取り返しのつかない過ちを犯し、歳の女の未来を奪ってしまった男。 その罪のさに耐えかねて全財産を差しし、名を捨て、戸籍を捨て、んだ若者のに潜り込んで、ただを送り続けるだけの「幽霊」になった男。
そして——彼が命を削ってを送り続けた相は、もに、この世をっていた。
しない女のために、彼は、ボロアパートの片隅で計の歯を直し、夜の救急来で元を偽り、割負担の現を払い続けていたのだ。 なんという、救いのないだろう。 なんという、残酷なすれ違いだろう。
午過ぎ、暮里で線に乗り換え、宿から私鉄に乗って最寄り駅に着いた。 は既に通勤の波できしていた。 綺麗なスーツを着たサラリーマンや、眠そうに通学するたちが、に私の脇をすり抜けていく。 彼らにとって、今はどこにでもあるただの曜だ。 誰も、私の提げバッグのに、の男の数の贖罪と、者たちの名が詰まっていることなどりもしない。
アパートの錆びた階段をり、〇号のドアをけた。
ひやりとした空気が頬を撫でる。 部のは、私がてったのまま、静まり返っていた。