"婚姻届の帰り道、残高は1億円だった" 第4話
あいの酒蔵へ向かう最初の朝、私はしだけ緊張していた。
の酒蔵はっていたよりもずっと奥にあった。町からバスを乗り継ぎ、そこからさらに細いを歩く。杉ちを抜けると、古びた造の建物があいの溜まりに静かに佇んでいた。黒ずんだ板に苔むした瓦根。その軒には丸くきな杉玉が吊るされている。
空気が違った。ひんやりと澄んで、どこからか米を蒸すような甘く柔らかい匂いが漂ってくる。ここで酒が作られているのだ。 酒蔵のにはのねた軽トラックが1台止まっていた。その脇で、1の男が黙々と桶を洗っている。 「あの、瀬孝介さんでしょうか?」
声をかけると、男はを止めて振り返った。褪せた紺の作業着、に焼けた彫りのい顔。そして節くれだって赤切れの目つきな。とても資産の匂いなどしない男だった。 「そうだが、あんたは……」 「桐み咲と申します。お父様の源郎さんの病院で護師をしております」
その名を聞いた瞬、男のきがピタリと止まった。私は父親の容態をできるだけ正直に伝えた。もうくはないこと。誰かに会いたがっているように見えること。そして、あなたに嫁ぐと望んでいること。
孝介さんは洗いかけの桶をにしたまま、言もを挟まず最まで私の話を聞いた。
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その横顔からは何のも読み取れない。ただ、桶を握るにわずかに力がこもったのが見えた。
い沈黙の、彼はようやくをいた。 「わざわざ済まなかった。だが、あんたが無理に嫁に来ることはない。親父の勝な言い分だ。気にせず忘れてくれていい」
突きすような言葉だった。それなのに、そこには議とトゲがなかった。むしろ私を気遣っているようにさえ聞こえた。彼は桶を置くと、へ通すように戸をけた。
酒蔵のはから見るよりずっと広く、そして驚くほど清潔だった。ずらりと並んだ仕込み樽。磨きげられた具の1つ1つ、の隅まで誇りつなく入れがき届いている。く病院で様々なを見てきたけれど、物の扱い方にはそののき方がる。この酒蔵の具たちは、主の誠実さを何より雄弁に語っていた。
戸のくで、孝介さんは仕込み樽の1つを覗き込んでいた。い櫂をにして、のい液体をゆっくりとかき混ぜている。折、指の先にほんのしすくっては舐め、じっとを確かめる。その目はさっきまでのな男とはまるで別のように、真剣そのものだった。
ふと、孝介さんのが止まった。さな柄杓で量をすくい、それを迷いなく脇の樽へ流し込む。 「もったいないなんてっちゃいけねえ」
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独り言のように彼は言った。 「わずかでも雑がたら、その先はもう客を騙すことになる。ごまかした作りは必ずにるんだ」
誰に聞かせるでもないその言に、私はわずを止めた。 奥から髪の老いた男がてきた。樋さんという、この酒蔵で40も使えている番のだ。 「お客さんかい? 珍しいこともあるもんだ」 樋さんは私に茶をしながら目を細めた。 「あんた、孝介さんに何か用かね。悪いがあのは無でとつきにくいだろう。だがね、腕は本物だ。このであのほど酒に真剣な男はいないよ」 「樋さんは、孝介さんをから信頼されているんですね」 「信頼どころじゃないさ。この寄りが40もこの酒蔵にいるのは、あのの作る酒がみたいから、それだけだよ」
その言葉に嘘や世辞の響きは微もなかった。な主にこれほどの敬を寄せるがいる。それだけで、孝介という男の輪郭がほんのしだけ見えた気がした。
帰り際、酒蔵の入りの柱に古いの板がかかっているのに気づいた。墨で力く文字、「現」。 「これはお酒の名ですか?」 私が尋ねると、孝介さんは板を別しただけで、それきり何も答えなかった。ただその目がほんのし、奥を見るように揺れた。その横顔が、なぜか胸の奥に残った。
帰る私を、孝介さんは酒蔵のまで見送りにてきた。
「はが落ちると危ない。バスまで送る」