"婚姻届の帰り道、残高は1億円だった" 第7話
その横顔はいつもよりしだけ柔らかかった。このは何かから逃げてこのにたどり着いた。その正体が何なのかはまだ分からないけれど、その言葉に嘘がないことだけははっきりと伝わってきた。謎がまるほどに、私はこのを信じたくなっていく。
そんなあるのことだ。朝から井さんの咳がひどかった。顔もさえない。私は護師の性とどうしても放っておけなかった。孝介さんが町へかけ、酒蔵に井さんと2きりになった昼がり。私は井さんを座敷の端に座らせ、その背にそっとを当てた。
「井さん、しがあります。無理はいけません。今はもう休んでください」 「なに、これ式のこと。若いもんにしがつかんよ」 「事なら私が作ります。ほら、これをんで、姜を入れておきましたから」 私は台所で温めたみ物を井のに握らせた。苦しむ老をなだめ、半ば無理やり奥の部の横に横たえ、額に濡れたぬぐいを置く。誰に見せるためではない。ただ目ののが辛そうだったから体がいた。それだけのことだ。
用を済ませて座敷に戻ると、蔵の戸に孝介さんがっていた。いつ帰ってきたのだろう。彼は何も言わず、ただじっと私を見ていた。やがて彼は板敷きにがると、私の分の茶を黙って淹れ、そっと差しした。
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ざらついた湯呑みから温かい湯気がっている。 「あんたは変わっただなあ」 ぽつりと孝介さんは言った。それは以、玲子に侮辱されたの響きとはまるで違っていた。そのまなざしのを、このの私はまだらなかった。
の気配がづく頃、源郎さんの命の灯は目に見えて細くなっていっていた。眠っているが増え、粥もほとんど喉を通らない。それでも識のはっきりしたには、あの頑固な軽が戻ってくることもあった。
ある午、私が枕元のをけ替えていると、老がふいにをいた。 「なあ、み咲さん、あんた、あのバカ息子のところへ通ってくれてるらしいな」 「はい。々、酒蔵にお邪魔しています」 「あいつは昔から笑うのがな男でな。だがこの頃、から便りが来る。あんたが来てから、あいつの顔つきがし変わったと……」
老の目には、初めて会った頃のトゲトゲしさはもうなかった。ただ、が子を案じる1の父親のだけが静かに滲んでいた。 「……すまん、余計なことを言った。忘れてくれ」 そう言って、老は疲れたように目を閉じた。
その数だった。恐れていたらせが届いたのは、夜勤けの朝、病院から話が入った。源郎さんの容態が急変したという。私はそので病院へ駆けつけた。血圧ががり、識のはっきりしないが増えている。
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残されたがそうくはないことは、護師の私にはすぐに分かってしまう。
私は迷った末に、蔵の孝介さんへ話をかけた。 「孝介さん、お父様が……もうあまりがないかもしれません」 話の向こうでい沈黙があった。気遣いだけがかすかに聞こえる。 「分かった」 彼はそれだけ言って話を切った。来るとも来ないとも言わなかった。20ものを聞いていない父親だ。今更どんな顔で会えばいいのか。その葛藤のさは私には測りれなかった。
けれどそのの午、病院の廊に見慣れた作業姿が現れた。孝介さんだった。へるための張羅らしい古びた着を羽織り、には蔵に咲いていた菊が束握られている。その顔は蒼だった。 「親父は……に?」 「はい。今はし落ち着いています。どうぞ」
私は病の扉をけたけれど、自分はへ入らなかった。ここから先は父と子のだ。私がいてはいけない気がした。扉を細くけたまま、私は廊の隅からその様子をただ見守った。
孝介さんはベッドの脇にち尽くしていた。源郎さんがく目をける。2の線が20のを超えてようやく交わった。何を話しているのかは聞こえない。聞いてはいけないとった。ただ、源郎さんの唇がゆっくりとくのが見えた。
孝介さんは俯いたまま、何度もさく頷いている。
やがてそのきな肩がかすかに震え始めた。