"恩人弁護士の不可解な書類" 第22話
閉まりかけた古本のかりが、濡れたアスファルトを黄く照らしている。 ビルの向かいにある、昭の面を残すさな純喫茶の板が、ぼんやりと灯っていた。
「……し、温かいものでもみませんか」
榎本先が言った。 は喫茶に入り、奥のボックス席に座った。 内には静かなジャズが流れ、焙煎された珈琲の苦いりが漂っていた。
運ばれてきた湯気のつブレンドコーヒーをみ、私は息をついた。
「お疲れ様でした、先」
「お疲れ様でした、矢野さん」
榎本先は両でカップを包み込み、自嘲気に元を歪めた。
「……結局、私はあなたに救われてばかりでしたね。佐伯のも、今も。あなたが几帳面にあのノートを残していなければ、今の勝利はありませんでした」
「いいえ。先が佐伯を追い詰めてくれたから、私は今、ここにてたんです。それは本当です」
私はカバンをけた。 そして、つの封筒を取りした。
つは、佐伯から受け取った賠償のから、約束していた榎本先への成功報酬の残額。 の封筒に入った、万円の現だった。
そしてもうつは、い無の封筒だった。
榎本先の線が、そのい封筒に落ちた。 そこには、几帳面な私の文字で、宛名がかれていた。
『第京弁護士会 綱紀委員会御』
榎本先の息が、わずかに止まった。
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「……それは」
「弁護士法第条、守秘義務違反に関する報告です」
私は静かに言った。
「先が私を佐伯の事件から救ってくれたこと、そのに梨さんを救うために必だったこと、今の法廷で私を守るために全力を尽くしてくれたこと。その全てを、事実の通りにきました。嘘はつもありません」
榎本先は、かなかった。
「先。私はあなたに謝しています。梨さんを救ってくれたことも、本当にすごいことだとっています」
私はい封筒を、榎本先のへ滑らせた。
「でも……あなたが私を裏切り、私の言葉を無断で使った事実は、消えません。梨さんを救うためなら、のを瞬でも危険に晒していいという法は、どこにもありません。それは、あなたが番よくっているはずです」
榎本先は、目を伏せた。 い沈黙が流れた。 珈琲の湯気が、ので静かに揺れている。
やがて、榎本先は顔をげた。 その表には、恐怖も、憤りもなかった。 まるで、い背負い続けていたい荷物を、ようやくろすことができたような、澄み切った微笑みがあった。
「……ありがとうございます、矢野さん」
榎本先は、両でそのつの封筒を受け取った。
「私は、処分を受けます。戒告か、業務止か……どんな決定がろうと、謹んで受け入れます。あなたがこの報告をしてくれなければ、私はきっと、これからも『正しい目のためなら、しの越境は許される』と自分を欺き続ける、傲なになっていたでしょう」
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榎本先は席をち、私に向かって、くをげた。
「正義に、はない。を救うために、別の誰かを踏み台にしてはならない。……弁護士として、最も初歩で、最も切なことを、あなたに教えていただきました」
「顔をげてください、先」
私は笑った。 初めて、の底から、何の蟠りもなく笑うことができた。
「次にお会いするは、もう依頼と弁護士じゃありませんから」
喫茶をて、神保町の交差点で榎本先と別れた。 先は古びた雑居ビルへ、私は鉄の階段へと向かった。 振り返ることはしなかった。 私たちを繋いでいた細く、歪で、けれど確かにかった糸は、今、最も正しい形で解かれたのだ。
それから、週が過ぎた。
季節は完全にから、の気配をわずかに含んだ初へと――いや、たいのにも、どこか柔らかな差しが混ざる季節へと移り変わろうとしていた。
会社から届いた公式の退職証と名誉回復の面をに、私はしい就職活を始めていた。 あのネットの画は、今や完全に過のデマとして処理され、私の名を検索しても、佐伯の謝罪文のアーカイブが位に表示されるだけになっていた。
今受けるのは、神保町にあるさな版社の、総務事務の正社員面接だった。
しいトレンチコートにを包み、私は坂を歩いていた。
元には、自分ので掴み取った、点の曇りもない履歴がある。
スマートフォンがポケットので度だけ震えた。 ち止まって画面を見る。
梨郁恵さんからのメッセージだった。
『矢野さん、こんにちは。今から、実のくの図館で、週にだけのアルバイトを始めました。の空気が、とても美しいです。矢野さんも、面接、応援しています』
私はさく息を吐き、画面に向かって微笑んだ。
『私も今から面接です。お互い、自分のペースで歩いていきましょう』
返信を送り、スマホをポケットの奥くにしまった。 もう、画面の向こうの見らぬ悪に怯える必はない。 私を救ってくれる都のいい神様など、この世界のどこにもいない。 けれど、自分の尊厳を自分ので守り抜いたという記憶があれば、はどんな理尽の嵐のでも、倒れずにっていられる。
見げたの空は、どこまでもく、青く澄み渡っていた。 私は背筋を伸ばし、しい面接会のビルへ向かって、確かな歩を踏みした。