"義母の合鍵が入らない" 第8話
母親の鳴り声が、受話器から漏れ続けます。 健のが、刻みに震え始めました。
彼は、非常階段のたいすりを、爪がくなるほどく握りしめました。 ので、つの選択肢が激しく衝突していました。 いつも通り、「母さんを宥め、由を説得して、元に戻す」。 あるいは――。
い、苦しい沈黙が、階段に落ちました。
『健!? ちょっと、健!』
健は、乾ききった唇をゆっくりときました。 喉の奥が引き攣り、声がかすれそうになりました。 けれど彼は、で度も母親に向けたことのなかった、く、震える声を絞りしました。
「……母さん」
『なによ!』
「鍵を、変えたのは……」
健はく目を閉じ、息を吸い込みました。
「僕が、同したからだよ」
健が非常階段のたい踊りで絞りした「僕が、同したからだよ」という言葉。 その言に至るまでの針の穴を通すようなを、私は今でも鮮にいすことができます。
あの鍵を巡る静かな侵略に終止符を打ったのは、夫婦の劇な解でも、夫の突然の男気でもありませんでした。 それは、私がこので積みげてきた「諦め」のすべてを、徹な現実として彼の目のに突きつけたからでした。
鍵を取り替える。曜の朝のことです。
の終わりの空はく垂れ込め、細かいがを濡らしていました。
広告
健はその、会社のゴルフコンペだと言って、朝のにいそいそとかけていきました。 玄関で彼を見送る、私は彼の首元に漂う、義母が勝に買ってきたドラッグストアの髪料の匂いに気づきました。 以の健なら、私が選んだ無料のオーガニックワックスを好んで使っていました。けれど今は、母親が「これが番清潔がある」と押し付けてきたっぽい柑橘系の匂いを、何の疑問も抱かずににまとっています。
男の侵は、こうして匂いや持ち物といった、境界線の側からゆっくりと始まっていくものなのだと、私はめたで観察していました。
健の音がエレベーターのに消えたのを確認すると、私はすぐに支度をえ、折りたたみ傘をにをました。 向かったのは、自宅の最寄り駅から私鉄で駅ほどれた、各駅しか止まらないさな駅でした。
駅の雑居ビルにある、個経営の産仲介業者。 事にネットで目をつけていた、築の鉄筋コンクリート造りのマンションの内見を申し込んでいたのです。
「佐藤さんですね。今ご案内する部は、の居さんが綺麗に使われていたので、クリーニングも完璧ですよ」
案内されたのは、階の角部、平米の1LDKでした。 ドアをけると、し古い造建築特の乾いた空気と、真しいワックスの匂いがをくすぐりました。
広告
当たりはお世辞にも良いとは言えませんでしたが、ベランダからは隣の神社の青々とした楠の梢が見えました。 リビングには、私のあのウォールナットの机がちょうど収まりそうな窪みがありました。
何より、そこには誰も勝に入ってきません。 鍵を握りしめた義母が、予告もなくドアをけることもなければ、留守に引きしを漁られることもない。 自分の尊厳を、自分ので守るための、私だけの。
「……ここをお借りします」
私は産の担当者に、迷うことなく告げました。
事務所に戻り、契約の事審査申込にペンをらせました。 勤務先、収、勤続数。独代から今の会社で真面目に働いてきた実績が、ここで私を助けてくれました。 保証会社の審査料と、仮押さえのための申込万円を財布から取りし、領収を受け取りました。
そのい切れを指先でなぞった瞬、胸の奥を締め付けていたたいワイヤーが、ぷつりと音をてて緩んだのをじました。
いつでも逃げられる。 この所がある限り、私はもう、あの部で誰かの顔を伺いながら息を潜める必はない。 その確信が、私に絶対な静寂をもたらしていました。
自宅に戻ったのは、午過ぎでした。
私は所のホームセンターで買ってきたきめの段ボール箱をつ、リビングのに広げました。