"一度も抱かれなかった娘" 第6話
「これにぬいであるおなまえ……さくら?」
喉の奥が完全に詰まり、呼吸の仕方を忘れたようにち尽くした。 玄関の暗い灯りので、歳の娘の澄んだ瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。
「パパ……これにぬいであるおなまえ、さくら?」
玄関の暗がりの、歳の娘の澄んだ声が、静かな廊に染み通るように響いた。
咲良はさな両で、広げたガーゼハンカチの端をしっかりとつまんでいた。 その指先が、拙いピンクの刺繍糸で縫われた「さくら」の文字を、慈しむようになぞっている。
私の臓が、元で鐘のように鳴り響いていた。 全の毛穴から、じっとりとたい汗が噴きしてくる。 、私はこの子の世界から、母親というの痕跡をすべて削ぎ落としてきたはずだった。 アルバムの写真も、あいつが使っていたマグカップも、好んでいたラベンダーの芳剤すら、あのを境にひとつ残らず処分した。 それなのに、なぜこんなさな布切れ枚が、いま咲良の掌のにあるのか。
「……咲良」 私は喉の奥に張り付いた唾をみ込み、できる限りく、穏やかな声音を作った。 表が張っているのを自分でも自覚していた。唇の端を引きげ、父親としての仮面を張り直す。
「それはね、昔……お仕事のお客さんからもらった、ただの見本だよ」
「みほん?」
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咲良は首を傾げた。納得のいかない目だった。 歳の子どもを侮ってはいけない。 保育園のクラスになり、自分の名がかれた持ち物を毎自分で管理している咲良にとって、「さくら」という文字は、世界で最も特別で、見慣れた記号なのだ。
「うん。ベビー用品を作っている会社のからもらったんだ。たまたま咲良と同じ名が刺繍してあったから、パパが記に鞄の奥に入れておいたのを忘れてたんだよ」
ながら、穴だらけの言い訳だった。 だが、そののいつきとしては、それが限界だった。
「でもね、咲良。それは古いものだから、埃がいっぱいついているんだ。が汚れちゃうから、パパに返しなさい」 私はしゃがみ込み、ゆっくりとを差しした。 決して奪い取るような仕を見せてはいけない。子どもは親の揺に異常なほど敏だ。 ここで焦れば、咲良はこの布に「何か特別な秘密がある」と察してしまう。
咲良は、ののガーゼハンカチを見つめた。 くて、し黄ばんだい布。 その布を、咲良はふと、さなにづけて匂いを嗅いだ。
その無識の仕を見た瞬、私の胸に鋭い痛みがった。 やめろ、と叫びそうになるのを必に奥歯で噛み殺す。 まれたばかりの赤ん坊が、母親の匂いを求めるような仕。 あいつの匂いなど残っているはずがない。
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も病院の暗い保管庫に眠っていた布に、あるのは古いと埃の匂いだけだ。 それでも、咲良のそのさな作は、私の神経を容赦なく逆撫でした。
「……なんか、いいにおいする」 咲良がぽつりと呟いた。
「嘘をおっしゃい。埃っぽいだけだ」 私はわず語気をめ、咲良のからガーゼをひったくるように取りげた。
「あ……」 咲良のが宙に残された。 驚いたように目を見張り、し怯えたようなを浮かべて私を見げる。 いつもなら、どんなにわがままを言っても絶対に声を荒らげない父親が、見たこともない険しい顔をしている。その異変を、歳の女は肌でじ取っていた。
「……ごめん。パパ、仕事で疲れてるんだ」 私は無理やり笑顔を作り、咲良の柔らかなを撫でた。 「ほら、を洗ってきなさい。今のごはん、咲良の好きなハンバーグを温めようか」
「……うん」 咲良はさく返事をして、トボトボと洗面所へ向かった。 いつもなら「わーい、ハンバーグ!」とびねるはずの取りが、鉛のようにかった。 その背を見送りながら、私はののガーゼハンカチを、握り潰すようにく握りしめた。
い綿の触が、掌のでくしゃりと潰れる。 あの女の指先が、痛む腹を抱えながら針針縫い付けた糸の凹凸が、私の皮膚をちくちくと刺すようだった。
私は玄関に散らばった類をかき集めた。
『母子同・直接授乳申請』。 最段に押された「許」の赤印と、私のサイン。