"解雇された職人が未明に餡を練る" 第15話
藤子さんの瞳の奥で、何かがさく揺らめいた。
「を畳むにしても、続けるにしても……で、ちゃんと顔をわせて終わらせてください。健太さんに、本当のことを話してください。……お願いです、藤子さん。もう度だけ、厨にってください」
たいが、アパートのトタン根を激しく打ち鳴らしていた。 藤子さんは、胸ののノートをぎゅっと抱きしめ直すと、袖で乱暴に涙を拭った。 その顔には、先ほどまでの怯えた老女のは消え、かつて鍋ので私が見た、あの気迫に満ちた職の差しが戻っていた。
「……着替えるわ。美咲ちゃん、傘を本貸してくれる?」
正午を回った頃、私と藤子さんは、裏から柳堂の勝へと滑り込んだ。
脚はさらにまり、商の通りを歩くの姿はまばらだった。 先のシャッターは半分ろされ、「本仕込みのため臨休業」の札が頼りなく揺れている。
厨に入ると、昨夜の煙の匂いはまだ消えていなかったが、の汚れや散らばった豆は、子さんのによって綺麗に片付けられていた。 作業台のには、先代の代から使われている鍋が、黒焦げの底をに向けたまま、痛々しく転がされていた。
藤子さんは、誰に言われるでもなく、持参した自分のい割烹着に腕を通した。 着慣れたその布をに纏った瞬、彼女の背筋がスッと伸びた。
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「美咲ちゃん。鍋の焦げを落とすわよ。曹とお酢、それから属タワシを持ってきて」
「はい!」
がかりで、焦げ付いた鍋を磨き始めた。 ゴシゴシと属を擦る鋭い音が、静まり返った厨に響き渡る。 湯をかけ、炭化した餡を削り落としていくたびに、の肌がしずつ、鈍い輝きを取り戻していった。
その音を聞きつけてか、階段を軋ませる音がした。
厨の入りに、子さんがっていた。 の着物の裾をわずかに持ちげ、濡れた割烹着姿の藤子さんを、見かれた目で見つめている。
「……佐野さん」
子さんの声が震えていた。
藤子さんはを止めなかった。タワシを力くかしながら、を向いたまま言った。
「奥様。鍋を磨き終わったら、の分の豆を研ぎます。箱分なら、鍋つでにいますから」
「……何をしに来たんだい。もう、終わったはずだよ。健太の腕を見てないのかい」
「見ましたよ」
藤子さんはタワシを置き、ゆっくりと振り返った。 そのは、たいと研磨剤で真っ赤に染まっていた。
「あの子に傷をさせたのは、あんたと私よ。あの子の優しさに甘えて、言葉を尽くすことから逃げて、都のいい悪役を気取ってあの子を追い詰めた……私たちの傲さが、あの腕を焼いたのよ」
子さんの唇がさく震え、言葉を失った。
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「周のは、でにちます。予約してくれたお客さんに、をげて本物の餡を渡します。……そのあとで、でちゃんと話をしましょう。逃げるのは、もう終わりです」
藤子さんの毅然とした声に、子さんは何も言い返せなかった。 ただ、痛ましそうに目を細め、胸元をかき抱くようにしてち尽くしていた。
午。 がりになり、私たちはの仕込みの準備を淡々とめた。 階からは物音つ聞こえなかったが、健太さんが起きていることは気配で分かった。階から響く鍋を磨く音、豆を研ぐの音を、彼はあの布団ので、息を殺して聞いているはずだった。
「美咲さん」
藤子さんが豆の選別作業を始めた頃、子さんが帳から私を呼んだ。
「の資材の確認をしておくれ。包装と提げ袋が、りているかどうか見ておきたい」
「分かりました」
私は帳へと向かった。 暗い帳には、古いの匂いと、染み付いた墨の匂いが漂っていた。 帳机のは綺麗に頓されており、の引き渡し予定の伝票だけが、さな文鎮で押さえられていた。
資材置きの棚を確認するため、私は机の脇にある製の引きしをけようとした。 その、机の端から滑り落ちそうになっていた黒革の売台帳が目に入った。
元に戻そうと、台帳を持ちげた。
そのから、枚のい類が滑りしてきた。