みかん小説
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"沈黙のピアニストは厨房に潜む" 第9話

静まり返った空で、ただ目のの象の鍵盤を見つめ、そっと両を持ちげる。

指先が鍵盤のたさに触れた瞬、ビリリと微流のような衝撃が体の芯を貫いた。 (怖い……) 指が張り、たい汗が背を伝う。 あの夜の鳴が、再び脳裏をよぎりそうになった――その

は目を固く閉じ、く、く息を吸い込んだ。 恐怖よりも、悔よりも、もっとい。 途方に暮れるこのたちを、自分の音で救いたい。 その痛切な祈りだけを胸に抱き、は震える両を鍵盤のへと構えた。

瞬の静寂。 背から、スタッフたちの息を呑む気配が伝わってくる。

は祈りを込めるように、差し指を、そっと沈み込ませた。

――ポーン……。

静まり返ったフロアに、澄み切った滴が静かな面に落ちたような、透な最初の音が響き渡った。

自らが鳴らした音の響きに、わずを固くした。 しかし、次の瞬――凍りついていたはずの指先が、まるで自らの志を持っているかのように、ひとりでに滑らかにき始めたのだ。

という歳に軋んでいた指の関節が、音をねるごとにを帯び、みるみるうちに血が巡っていく。 最初は頼りなく微かに震えていたタッチが、かつて培った確かな打鍵のさと、しなやかな筋肉の躍を取り戻していった。

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が選んだのは、当初予定されていたような派で技巧なプログラムではなかった。 かつて、夜がけるまで奏と何度も何度も弾きった、の原点とも言える、美しく優しい旋律だった。

音、また音とねるごとに、の体を張らせていた恐怖は、議な温もりへと変わっていった。 迷いそうになる指先を、見えないもう組のが、からそっと包み込んで導いてくれているような覚。 まるで、すぐ隣に奏が座り、呼吸をわせてくれているかのようだった。

――丈夫。の音を、みんなに届けよう。

の奥で、温かな親友の声がリフレインする。 の奏でる音には、この封じ込めてきたしみ、悔、そして何よりも親友への尽きせぬ謝のすべてが込められていた。

柔らかく、それでいて決して折れることのない芯のある響き。 フロアの空気を微かに震わせる音と、クリスタルグラスの縁を撫でるように繊細で煌びやかな音。 淀んでいたフロアの空気は瞬にして塗り替えられ、圧倒な音の渦となって広がっていった。 それは単なる穴埋めの代役演奏などではない、魂の奥底から湧きがる、切実な祈りそのものだった。

騒然としていたフロアの空気は、まるで魔法にかけられたように変していた。

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声で演奏を止めようとしていた宮は、目を見いたまま、に打たれたようにち尽くしている。 岡本は、運ぼうとしていたワイングラスをトレイに乗せたまま、ピタリとを止めていた。 川は、込みげてくるいものを隠すように、そっと目元を指で押さえている。

満を漏らしていた客席のVIPたちも、今は誰として言葉を発する者はいなかった。 極の料理のすらも束の忘れさせるほどの圧倒な音に、誰もがを奪われ、ただ息を潜めてを傾けていた。

やがて、の優しいピアノの調べに導かれるように、スタッフたちが自然とき始めた。 誰に指示されたわけでもない。 音を忍ばせた優雅な所作で料理を運び、音をてずにワインを注ぐ。 最初は「ただの皿洗い」と見していたはずの女性が紡ぐ至の音楽と、プロフェッショナルの誇りを取り戻したサービスが、奇跡のような調していく。

全体が、の奏でる旋律のうねりに乗って、つのき物のように呼吸を始めていた。

曲が最潮の盛りがりを見せた、まさにその。 背きなパノラマウィンドウの向こう、夜のをつんざくい音と共に、鮮やかな輪の打ちが夜空に咲き誇った。 ガラスに反射する無数のの粒が、ピアノを弾くの姿を祝福するようにり注ぎ、この奇跡のような夜を、息を呑むほど美しく彩っていた。

が夜空にゆっくりと溶けていくの指先から紡がれる旋律は、さざ波のように静かでい終盤へと向かっていった。

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