"十二年前、泥水に捨てられた私" 第3話
すべてが狂い始めた直接の引きは、ほんの数の来事だった。
の穏やかな午、奈緒の学代からの親友だった松井絵里が、事の連絡もなく突然敷を訪ねてきたのだ。
普段はナチュラルメイクを好んでいたはずの絵里は、そのに限って派なルージュを引き、見たこともない級ブランドのコートを羽織っていた。
客に通し、お茶を淹れてきりになると、絵里は湯呑みにを触れようともせず、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言い放ったのだ。
「奈緒、事な報告があるの。……私、隆司さんの子を妊娠したの。男の子よ」
その瞬、奈緒の界からすべてのが抜け落ちた。
の奥でキーンという属音が鳴り響き、絵里の顔が歪んで見える。
絵里は元のバッグから、産婦科のエコー写真を取りしてテーブルに滑らせた。
「ごめんね、奈緒。でも、あなたもってるでしょう? がどれだけ男の跡継ぎを欲しがっているか。あなたが産めなかった『男の子』を、私が授かったのよ。結婚って、督って現実じゃない? 隆司さんも、お義母様も、私のほうを選んでくれたわ」
申し訳なさなど微もなかった。
そこにあったのは、の庭を略奪し、自分が勝利者になったという純粋な愉悦だけだった。
その夜、帰宅した隆司に、奈緒は震える声で問い詰めた。
広告
「絵里が言っていたこと……本当なの?」
隆司は奈緒と目をわせようともせず、靴を脱ぎながら、まるでの気の話でもするかのように平然と言い放った。
「ああ。本当だ。向こうは男の子だって確定してる。おには無理だったことを、絵里は発でやってのけたんだよ。どっちが正妻にふさわしいか、子供でも分かるだろうが」
「私は……私はあなたの妻なのよ? 紬はあなたの子なのよ!」
「跡継ぎも産めない良品が、いつまで妻気取りでいる気だ。顔も見たくない」
隆司は吐き捨てるように寝へ消え、その翌には静子から「荷物をまとめててけ」と酷に告げられたのだった。
そして今、奈緒はたいのを彷徨っていた。
夜がけるとすぐに、奈緒は駅の古い雑居ビルにある格のビジネスホテルへ駆け込み、紬の体を温かいタオルで拭いた。
幸いにもはがっておらず、ミルクをむとすやすやと眠りについてくれた。
その寝顔を見届けた、奈緒が向かったのは役所だった。
婚届の用に、震えるで必事項を記入していく。親権の欄には迷わず自分の名をいた。
からは慰謝料も養育費も円たりとも支払う気はないというが、弁護士を通じて々に送りつけられてきていた。ただ「親権はおが全て引き取り、今度とを名乗らず、切の接触を断つこと」
広告
だけが婚の条件だった。
事務に押された赤い受付印を見た瞬、奈緒の目から涙がこぼれ落ちた。
だが、それは悔の涙ではなかった。
「紬。お母さんが、絶対にあなたを幸せにする。男の子じゃないからって捨てられたなんて、誰にも言わせない。お母さんが証してみせるから」
奈緒が借りることができたのは、郊の築の造アパート、呂なし畳半のだった。
賃は万千円。敷礼ゼロ。
隣の部の咳払いが筒抜けになり、が吹けば建具がカタカタと鳴るような暗い部だったが、今の奈緒にとっては誰にも奪われない唯のだった。
井の裸球にのタオルを被せてをらげ、畳のに敷いた煎餅布団に紬を寝かせる。
さな帳をき、鉛で計算をらせる。
持ちの貯は、独代に細々と残していたわずか万円らず。
毎の賃、ミルク代、おむつ代、費……。
削れるものはすべて削っても、働かなければ数ヶで底をつく。
翌朝から、奈緒の職探しが始まった。
しかし、もない乳み子を抱えた女を雇ってくれる所など、どこにもなかった。
ファミレスの厨、スーパーのレジ打ち、清掃会社、片っ端から履歴を持ってび込んだが、どの面接官も奈緒の背のおんぶ紐を見るなり、骨に嫌そうな顔をした。