"十二年前、泥水に捨てられた私" 第4話
「赤ちゃんがをしたら急に休むんでしょう? うち、そういうの困るんだよね」
「託児所? うちにはそんな制度ないよ。を当たって」
払いをらい続け、週が過ぎた頃、奈緒はようやくつの求に辿り着いた。
オフィスの規模ビルの朝清掃。
勤務は午から午までの。は当の最賃ギリギリだった。
面接を担当した清掃会社の配の責任者は、奈緒のやつれた顔と、背で静かに眠る紬を見比べ、いため息をついた。
「成瀬さん、本当に丈夫かい? 朝のだよ。まだ夜もけてない。赤ん坊を背負いながらモップ掛けなんて、体が持たないよ」
「お願いします! どんなにきつい所でも、トイレでもゴミ集めでも何でもやります! 娘には絶対に迷惑をかけさせませんから!」
奈緒はに額がつくほどくをげた。
責任者はしばらく無言で見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……ビルのにある従業員用の休憩の隅なら、仕事、赤ちゃんを寝かせておいてもいい。ただし、絶対にのテナントのに見つかるんじゃないよ。苦が入ったら発でクビだからね」
「ありがとうございます……! ありがとうございます!」
奈緒のしい朝は、午に始まった。
え切った板のに鳴り響く目覚ましを止め、まだのにいる紬を優しく抱きげ、のブランケットで包んで背負い紐でしっかりと固定する。
広告
始発の静まり返った通りを歩き、本の線バスを乗り継いで、オフィスのへと向かう。
内で紬がぐずり始めると、奈緒は周囲の乗客に申し訳なさそうにをげながら、声で子守唄をずさみ、体を刻みに揺らした。
現に到着すると、ビルの休憩の古びたソファに紬を寝かせ、奈緒は作業着に着替えて資材カートを引いた。
広なフロアの掃除掛け、数箇所に及ぶ湯の清掃、たいゴミ袋の回収。
ので指先はあかぎれになり、血が滲んだ。腰は鉛のようにく、の裏には幾にもマメができた。
それでも、奈緒はを止めなかった。
折、紬の泣き声がから微かに聞こえてくると、奈緒は階段を駆けり、汗だくの作業着の胸元を緩めて授乳をした。
そんな奈緒の姿を見て、古参の清掃員たちが湯のでひそひそと囁きう声がに入ってくることもあった。
「にねえ。あんなさな子を連れてまで働かなきゃいけないなんて」
「聞いた話じゃ、旦に追いされたらしいよ。男の子が産めなかったからって」
「今そんな理由で捨てる男がいるのかね。よっぽど甲斐性のない嫁だったんじゃないの?」
刃のような言葉が胸を抉っても、奈緒は決して言い返さず、表を崩さなかった。
ただ、作業着の襟を掴む紬のさな温もりだけを頼りに、奈緒はのでく唱え続けた。
広告
――見ていなさい。隆司、絵里。
私とこの子を捨てたことを、絶対に悔させてやる。
私たちは絶対に、あなたたちよりも幸せになってみせる。
そんな過酷な々が始まってが過ぎた頃のことだった。
奈緒が清掃を担当していたそのビルは、階建ての超層タワー。
正面エントランスには、誇らしげにのプレートが掲げられていた。
『神崎ホールディングス』
国内にグループ企業を持ち、バイオテクノロジーと先端医療で世界から注目を集める本数のメガ企業だった。
奈緒は毎朝、そのピカピカに磨かれたプレートの埃を拭き取りながら、ぼんやりとうことがあった。
こんな派な所で働くたちは、体どんな世界できているのだろう。
自分のように、百円のパンの特売に悩み、気代の請求に怯える毎とは、む世界が違いすぎる。
そのの奈緒の担当は、最階にある役員フロアだった。
フロアの最奥にある会は、のどの部よりも広く、な革張りのソファや特注のガラスデスクが置かれており、しでも指紋や埃が残っていれば厳しく指摘される所だった。
数、奈緒が廊をモップ掛けしていた際、会の分い扉の向こうから、く張り詰めた男性の声が漏れ聞こえてきたことがあった。