"十八年間、壁の中にいた妻" 第3話
自分が入院すれば、莫な治療費がかかる。
婚々、病に追われ、やがて衰してんでいく妻を見送るだけの絶望を、俊平に背負わせるわけにはいかない。
彼の未来を、自分の病気で塗りつぶすことなど、どうしてもできなかった。
綾乃は、あらかじめ決めていた別れを、今夜実することを決した。
ふらつくで寝に戻り、用してあった茶のボストンバッグに着替えとの回りの最限の品を詰め込んだ。
俊平が目を覚ますに、このから消えらなければならない。
バッグを抱え、再び裏庭へた。
しかし、量の血による貧血と酸欠で、界が急速に狭まっていた。
面がぐるりと回転し、がもつれる。
井戸の脇にあった古い漬物樽の横で、綾乃は耐えきれずに倒れ込んだ。
から滑り落ちた革のボストンバッグが、コンクリートの面に鈍い音をてて叩きつけられた。
その衝撃で、再び喉から血が噴きがった。
ゴボリと音をてて吐きされた血沫が、茶のバッグの表面と、周囲の面にび散った。
「……あ……」
俊平が物音で起きるかもしれない。
その恐怖だけが、朦朧とする識をかきてた。
血に染まり、鉛のようにくなったバッグを持ち運ぶ力は、もう綾乃には残されていなかった。
綾乃は震える両腕でバッグを引きずり、母の増築事現のの、ブルーシートのにあった古い漬物樽の裏の暗へ、無理やりに押し込んだ。
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そして、ただにつけたと、ポケットに入れたわずかな銭だけを握りしめ、ふらつく取りで庭の裏戸をけた。
未の濃いのち込めるへ、綾乃は吸い込まれるように消えていった。
*
午過ぎ。
姑の静枝は、尿を覚えて目を覚ました。
勝のサンダルを履き、の便所へ向かおうと裏庭を横切っただった。
濃い朝の向こう、庭の隅にある漬物樽のに、自然な黒い塊が見えた。
「……なんだい、あれは」
審にった静枝がづき、樽の裏を覗き込んだ。
次の瞬、静枝の喉から声にならない鳴が漏れ、そのにへたり込んだ。
そこには、嫁の綾乃が切にしていた茶のボストンバッグが転がっていた。
そして、そのバッグの表面にも、周囲のコンクリートの叩きにも、乾ききっていない赤黒い血だまりが、無残に広がっていたのだ。
「ひっ……!」
静枝はをで覆い、ガタガタと歯の根を鳴らした。
血のだった。
び散った沫、何かが引きずられたような々しい跡。
静枝の脳裏に、昨夜の景が鳴のように蘇った。
夜に酒に酔って帰ってきた息子の俊平。
寝から聞こえてきた、夫婦の言い争う声。
襖を乱暴に閉める音。
息子のあの苛った横顔。
(あの子が……俊平がやったんだ)
恐怖が、静枝の全の血を瞬で凍りつかせた。
俊平がかっとなって、綾乃の首を絞めたのか、あるいは殴りつけたのか。
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そして体をどこかの林へ運びし、埋めてきたに違いない。
この血まみれのバッグは、そのに残された決定な証拠だ。
「俊平が……私のたったの息子が、殺しになってしまう」
そのいが閃いた瞬、老いた母親のから、正常な判断力が完全に消えった。
息子を守らなければならない。
どんなことをしてでも、俊平の罪を隠さなければならない。
盲目な狂気が、静枝の体を突きかした。
静枝はの蛇を全にし、ゴムホースを引きずってきた。
たいを勢いよく面に叩きつける。
赤黒い血がに溶け、の流となって排溝へと吸い込まれていく。
静枝は素でコンクリートの叩きを狂ったように擦り、デッキブラシで何度も何度も痕跡を洗い流した。
雑巾でび散った沫を拭き取り、バケツので庭の隅々まで洗い清める。
残るは、この血にまみれたボストンバッグだった。
持ちげると、ねっとりとした温かい触がに残った。
燃やそうとした。
裏庭のドラム缶にバッグを放り込み、聞にをつけて投げ入れた。
しかし、その朝の諏訪盆は、湿度パーセントを超えるいに包まれていた。
湿った革は簡単には燃えず、ただプツプツと表面が焦げ、異様な悪臭の混じった黒煙がもうもうとちった。