"十年介護と九千万円" 第2話
ので警鐘が乱打されていた。 見てはいけない。 これ以追えば、私が信じ、耐え忍んできた世界のすべてが崩れる。 そう叫ぶ理性を、骨の髄まで染みついた疑惑が踏み躙った。
私は夜の帳にを潜め、男の背を追った。
男は駅の寂れた商を抜け、雑居ビルが密集する裏通りへと迷いなく入っていった。 赤提灯の並びを過ぎ、番奥にある、見客を拒むような黒塀の級割烹のに止まる。 男は周囲を鋭く度だけ見回すと、引き戸をけてへ吸い込まれていった。
私は息を殺し、建物の脇の狭いへ回り込んだ。 換気扇から漂う級な汁と酒の匂い。 すりガラスの格子の隙から、奥の座敷がわずかに覗けた。
そこにいたのは、紛れもなく私の兄の顔をした男だった。
だが、男は背筋を真っ直ぐに伸ばし、あぐらをかいて座っていた。 で徳利を持ち、盃に酒を注いでいる。 元には、私が度も見たことのない、傲で淡な笑みが浮かんでいた。
男の正面には、仕ての良いスーツを着た髪交じりの男——公団自治会の迫が、揉みをしながらをげていた。 そして男の隣には、夜のには釣りいなほど華やかな、ブランド物のスカーフを巻いた代半ばの若い女が、親しげに男の肩にを回していた。
「健さん、今分、茨のの続きがめば、あと倍にはなりますから」
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迫の卑屈な声が、換気扇の隙から漏れ聞こえてきた。
男はく、滑らかな声で答えた。 、度も言葉を発しなかったはずの男のから、澱みのない濁声が響く。
「あの愚図め、親父のを処分することにまだ渋ってやがる。く実印を巻きげろ。俺のも限界だ」
男は懐から、分い茶封筒を取りした。 札束のみで膨らんだその封筒を、男は女の胸元へと無造作に放り投げた。 女は甲い嬌声をげ、男の首に抱きついた。
私の界が、ぐにゃりと歪んだ。 胃の奥から酸っぱいものが込みげ、私は壁にをついて必に嘔吐を呑み込んだ。
嘘だ。 嘘だと言ってくれ。
私が毎、腰の激痛に耐えながら抱き起こしていたあの体は何だったのか。 「お兄ちゃん、今はいいお気だよ」と話しかけても、ただ端から涎を垂らし、虚ろな目で宙を見つめていたあの表は何だったのか。 しでも柔らかいものをと、すり鉢で丹にすり潰した野菜のを、こいつはどんないでみ込んでいたのか。
すべては、演技だった。 私をこの狭い公団に縛り付け、介護という名の鎖でを奪い、自分たちの自由とをに入れるための、酷極まりない檻だったのだ。
叫びしたい衝を、私は自分のの甲を噛むことで押し殺した。 皮膚が裂け、鉄のがいっぱいに広がる。
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ここでびせば、私は「狂った妹」として警察に突きされるか、あるいはれず消される。 迫の酷な目と、男の頑健な体躯を見れば、それくらい容易に像がついた。
私はに溶けるようにして、ぬかるんだを公団へと引き返した。
部に戻り、濡れたを拭く暇もなく布団に潜り込んだ。 臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れていた。 恐怖ではない。 私の代、代、代のすべてを搾取し尽くした奴らに対する、黒く濁った殺が、胸の底で静かにとぐろを巻いていた。
、玄関のドアが静かにく音がした。 音はゆっくりと部へづき、隣のせんべい布団に沈み込む。 やがて、聞き慣れた、あの嘘に満ちた「自由な寝息」が部を満たし始めた。
私はので目を見き、もできぬまま朝を迎えた。
*
午。 台所にち、いつものように噌汁を作る。 包丁がまな板に当たるトントンという音が、やけに乾いて響いた。
「う……あ……」
隣から、かすれた呻き声が聞こえる。 私は呼吸をつし、張り付けてきた「献な妹」の仮面を顔に貼り直した。
「おはよう、お兄ちゃん。今、お着替え持っていくね」
襖をけると、男は布団ので体を直させ、力なくを痙攣させていた。 の端にはわずかに泡が浮かんでいる。 昨夜、あの料亭で女の腰を抱き、傲に酒を煽っていた男と同物とは到底えない。