みかん小説
本棚

"十年介護と九千万円" 第3話

役者気取りのこの浅ましい豚を、今すぐ台所の包丁で刺し殺してやりたい衝が全を駆け巡る。

だが、私は微笑んだ。 ひび割れたで男の寝巻きを脱がせ、温めたタオルで体を拭く。 男の皮膚に触れるたび、指先が粟つほどの嫌悪に襲われた。 この男の筋肉は、寝たきりののそれではない。 無駄な脂肪がなく、芯には靭な力が潜んでいる。 なぜ今まで気づかなかったのか。 「病気の兄を疑ってはいけない」という盲目な善が、私の目を塞いでいたのだ。

し回った頃、玄関の呼び鈴が鳴った。

インターホンの受話器を取るまでもない。 ドアの向こうには、鼠のウールコートを着た迫がっていた。 には、所のスーパーのレジ袋。にはい干しうどんの束が透けて見えている。

枝さん、おはよう。健の様子はどうだい」

迫は同然にがり込み、油ぎった顔で笑った。 ポマードのっぽい匂いが、狭い玄関に充満する。

「ええ、迫さん。いつも気にかけていただいて……」

「いやいや、健は警察学代からの切な輩だからね。退職したとはいえ、見捨てるわけにはいかんよ。これ、乾麺だけど、お昼にでもべてくれ」

迫は恩着せがましくうどんを差ししながら、その鋭い目を内へとらせた。

広告

鴨居、古びた箪笥、そして私が台所に置いている類入れ。 その線のきは、活困窮者を気遣う民委員のそれではなく、捜しをする捜査員の目そのものだった。

「ところで、枝さん」 迫は声をくし、いかにも親な相談相といった調子でを乗りしてきた。

「茨のご両親の残されたのことなんだがね。昨、現の役から連絡があってね。い茂って隣から苦ているらしいんだ。このまま放置すると『特定空』に指定されて、固定資産税が倍にがるぞ」

「そんな……でも、あそこは兄と私の共名義で……」

「だからだよ」 迫は私の言葉を遮り、胸ポケットから枚の類を取りした。

「健はもう判断能力がない。成見の続きを庭裁判所に申してるにしても、がかかりすぎる。ここは警友会の顧問弁護士を通じて、任売却の委任状を作った。ここに枝さんの実印と、印鑑証をつけてくれれば、面倒な続きはすべて警察OB会の方で引き受けてやる。売却は、健の将来の特護老ホームの入居に充てればいい。君も、そろそろ楽になりたいだろう?」

面には『産処分及び代理権授与委任状』の文字が並んでいた。 私の実印さえ押せば、茨の先祖代々のが、迫の息のかかった産業者に文で買い叩かれる仕組みだ。

広告

昨夜の景が脳裏に蘇る。 ——「あの愚図め、く実印を巻きげろ」 男が吐き捨てた言葉。 こいつらは最初から、私の親の遺産を骨までしゃぶり尽くすつもりなのだ。

「……申し訳ありません」 私はうつむき、わざと困惑したように眉を寄せた。

「兄が倒れた、父の遺言で『どんなことがあってもだけは放すな』ときつく言われておりまして……。親戚にも度、相談してみないと、私のでは決めかねます」

迫の眉の筋が、ピクリとねた。 貼り付けた笑顔の奥から、酷なが漏れす。

枝さん。君は現実が見えていないようだね。君の細腕で、いつまでこの寝たきりの男の面倒が見られるとっているんだい? 所だってね、『いつまであの部から悪臭を垂れ流すんだ』とで言っているんだよ。私がに入って、自治会を抑えているからここにいられるんだ。恩を仇で返すような真似は、しない方がいい」

静かな、だが逃げのない脅迫だった。 の私なら、この言葉に縮みがり、泣きながら印鑑を差ししていただろう。 だが今の私には、その言葉の裏にある「焦り」が透けて見えていた。 こいつらは、急いでいるのだ。 あの若い女のためか、それとも別の理由があるのか。

「……し、考えさせてください」

私が頑なに線を落としたまま答えると、迫は苛たしげに舌打ちをし、類を乱暴にコートへ突っ込んだ。

曜の朝、また来る。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: