"十年介護と九千万円" 第5話
夜が更けるのを待った。 男に夕をわせ、眠薬の入った湯をませる。 この眠薬だけは、本物だ。訪問診療の医師から処方されている力な導入剤。 男が夜に抜けすのは、おそらく薬を舌の裏に隠して吐きしているからだ。 今夜は、男が薬をみし、喉を鳴らすのを、指を喉元に当てて確認した。 男の瞳の奥に、瞬だけ警戒のがったのを私は見逃さなかった。
午。 男の部から、をうようない鼾が響き始めた。 薬が完全に脳を麻痺させている証拠だ。
私は靴を脱ぎ、静かに襖をけた。 男は仰向けになり、を半きにしてのように眠りこけている。
私は男の枕元を通り抜け、ベッドの真へと膝をついた。 分の埃と湿気を含んだ畳の臭い。 奥の暗がりを探りすると、指先にたい鉄の触が触れた。
古い型の釣具箱。 兄が、釣りが趣だった頃に使っていた頑丈な属製のボックスだ。 「兄さんのいの品だから、捨てずにここに置いておこう」 そう言って、に迫が自らベッドのに押し込んだものだ。 表面には頑丈な京錠がかけられ、私は今まで度も触れたことがなかった。
私はエプロンのポケットから、あの防寒ジャンパーの裏に隠されていたさな字キーを取りした。
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鍵穴に差し込む。 カチリ。 信じられないほど滑らかに、鍵が回った。 油が差されている。 放置されていた箱の鍵が、こんなに滑らかに回るはずがない。
私は息を殺し、属の留めをした。 蝶番が錆びの擦れる微かな音をて、い蓋がいた。
には、釣り具などつも入っていなかった。
番に置かれていたのは、黒い防油布。 それをめくった瞬、私の目にび込んできたのは、幾にも束ねられた類と、黄く変した枚の片だった。
その片の最部には、赤字でこう印字されていた。
【千葉県警察本部 内部通報・取扱注】 【事案記録:里岸両転落災事故に関する最終報告】
付は、の。 兄が倒れたとされる、まさにそのだった。
震える指で、私はその片を持ちげた。 活字が、酷な事実を私の球に刻み込んでいく。
『……当該両内より発見された焼体について、法医学教による鑑定の結果、蓋骨の砕状況および気内の煤の付着状況から、両転落以に鈍器による部打撃を受けていた能性が極めていと判断される。 遺体の損傷は激しく、指紋の採取は能。 しかしながら、現に残された警察帳および識別章より、遺体は葛飾署域課所属・健巡査部(52)と推定……』
息が止まった。
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胸の奥が、たい氷の杭で貫かれたように凍りついた。
健は、んでいる。
のあの、里の崖からごと転落し、骨まで焼き尽くされて、すでにこの世をっていたのだ。
じゃあ——。 今、私の背で、らかな鼾をかいて眠っているこの男は誰だ?
私の代を奪い、 私の代を擦り減らし、 私のをあかぎれと排泄物の臭いで汚し、 毎「お兄ちゃん」と呼びかけさせていた、この男は。
男の寝息が、ふっと途切れた。
ギシッ、とベッドのスプリングが軋む音が、暗のに響いた。
ギシッ。
古いスプリングの軋む音が、湿ったのに落ちた。
私はベッドの、分の埃とカビが堆積した板ので、息を吸い込んだまま全を直させた。 喉の奥が引き攣り、肺が痛い。 指先は、兄の殉職を告げるあの黄く変した内部通報を握りしめたまま、氷のようにえ切っていた。
わずか数センチ。 いマットレスを隔てた所で、男の気配がいた。
シーツが擦れる擦れの音。 男が寝返りを打ち、い腕がベッドの縁からだらりと垂れがった。 その太い指先が、私の額からわずかセンチほどの空をかすめる。
(気づかれたか)
血の気が引いていく。 もし今、男が首を傾げてを覗き込めば、すべてが終わる。 、寝たきりのふりを続け、警察の目を欺き、私のを搾取し続けてきた酷な男だ。
この畳半の密で、私の首をへし折ることなど造作もないはずだった。