"十年介護と九千万円" 第7話
兄には、そんな傷跡はなかった。
「お兄ちゃん、今は迫さんがまた来るって。茨ののこと……どうしようね」
私が何気ない調でそう呟いた瞬だった。
男のの指先が、ほんの瞬、ピクリと自然にねがった。 痙攣ではない。 らかに私の言葉に反応し、神経を研ぎ澄ませたきだった。
男はすぐに元の虚ろな表に戻り、「あー、あー」と濁った声をしながら、力なく首を横に振る芝居を打った。 (く売れ、と急かしているつもりか) 私はのでたく嘲笑いながら、男の元にすり潰した根のスープを流し込んだ。
午分。 粗末な朝の片付けを終えた直、玄関のチャイムがけたたましく鳴り響いた。
予定よりもい。 迫は曜に来ると言っていたはずだ。
私はエプロンでを拭き、音を忍ばせて玄関へ向かった。 ドアスコープを覗き込む。
魚レンズの向こうにっていたのは、迫だけではなかった。 迫の隣に、物のビジネススーツを着た、歳の痩せ型の男がっていた。 には黒い皮のアタッシュケースを提げ、落ち着きのない様子で周囲の廊を見回している。
私は用く、ドアチェーンを掛けたまま、ドアを細くけた。
「……迫さん? 曜とおっしゃっていたはずですが」
迫はチェーンの隙に革靴の先をねじ込み、引にドアの隙を押し広げようとした。
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その顔には、昨までの慇懃な笑みは微もなかった。
「枝さん、急ぎの用件ができたんだよ。こちらは法務政士の佐伯君だ」
スーツの男が、チェーンの隙から名刺を差ししてきた。 【佐伯法務政事務所】 インクの匂いがしい、急ごしらえのような名刺だった。
「さん、茨の物件ですがね」 佐伯と名乗る男が、でまくしてた。 「現の業者から連絡がありまして、隣接との境界にある擁壁が崩落しかけているとのことです。このままでは法違反で過料が科されるばかりか、隣民から損害賠償を請求されますよ。刻もく更にして売却するしかありません」
あまりに骨な、を煽るための嘘だった。 茨の実は、平坦な田園帯の真んにあり、擁壁などしない。 両親が入れしていたさな垣があるだけだ。
「擁壁……ですか? 実の周囲にそんなものはありませんでしたが」
私が平然と切り返すと、佐伯の目が泳いだ。 すかさず迫が割って入り、太い指でドアの縁を叩いた。
「細かいことはどうでもいいんだ! は危険な状態にあるってことだ。役所や隣に迷惑をかけるに、の責任として処分しなきゃならん。ここに委任状と同がある。実印をしなさい、枝さん。印鑑証の取得委任状も入っている。
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君が役所にくも省いてやる」
チェーン越しに、迫の息が荒くなるのが分かった。 酒と煙の饐えた臭い。 そして、その瞳の奥にある剥きしの欲。
奴らは焦っている。 昨夜、料亭で男が迫に命じていた。 「く実印を巻きげろ」と。 の売却が、今すぐにでも必な事があるのだ。
「申し訳ありません」 私はチェーンを握り締め、たい声で言い放った。
「茨のは、父が遺言で叔父……戸にむ父の弟にも相談するように言い残しています。先ほど話で連絡を取りましたところ、、叔父が直接こちらに来て類を確認すると申しておりました。第者の方にお渡しするわけにはいきません」
「叔父だと……!?」
迫の顔が引き攣った。 戸の叔父など、に界している。 だが、茨の親族関係まで迫が完璧に把握しているはずがなかった。
「おい、そんな話は聞いてないぞ! 健が倒れた、親戚付きいは切ないと言っていたじゃないか!」
「兄はそうっていたかもしれませんが、父は叔父と連絡を取りっていました。実印は、叔父と話しってから押します。お引き取りください」
私がドアを閉めようとすると、迫は引に腕を差し入れようとした。 その目が、獰猛な獣のように吊りがる。
「枝さん! いい加減にしなさい! 誰のおかげでこの、この部にいられたとっているんだ! 健の元司の私が利きしたからこそ、公団も退させずに済んでいたんだぞ! 親戚だか何だからんが、余計な首を突っ込ませるなら、警察OB会としても相応の処置を取らざるを得なくなるぞ!」