みかん小説
本棚

"診察室に入れなかった私" 第18話

それはあなたのの問題よ。自分でクリニックを探して、自費で通院しなさい。その診断と経過報告を私に定期に提すること。それが、あなたがこのに戻るための最条件です」

は、何も言い返しませんでした。 かつてのように「君のためをって」という美辞麗句で誤魔化すことも、母親を呼んで方につけることもできない。 自分の元に広がっているのが、自らが掘りめてきた底なしの沼であることを、男はようやく理解したのです。

「……分かった」

絞りすような声でした。

「受けるよ……カウンセリングも、名義変更も、全部千の言う通りにする……。だから、頼むから……俺を、見捨てないでくれ……」

テーブルのに突っ伏して嗚咽を漏らす夫の姿を見つめながら、私は胸の奥で、たいが吹き抜けていくのをじていました。

しているから許すのではありません。 があるからやり直すのでもありません。 ただ、私と子どもが最も全に、最も確実に活を再建するために、この男の脆さを解剖し、逃げを塞ぎ、実利な枠組みのに再配置しただけでした。

「サインをして」

私がボールペンを差しすと、健は震えるでそれを取り、すべての類に、自らの名を署名捺印しました。

季節は巡り、京のに桜の蕾がほころび始めたの初旬。

広告

退院の続きを終えた私は、都総病院の正面玄関をました。 の柔らかな差しが、眩しく界を包み込みます。

私の腕のには、体百グラムを超え、無事にNICUを退院することができた娘——咲良(さくら)が、ピンクのおくるみに包まれて、すやすやと穏やかな寝息をてていました。

「千、回してきたよ」

玄関のロータリーに、のファミリーカーが静かにまりました。 運転席からりてきた健は、以のような華美な笑顔も、過剰なスキンシップもありませんでした。 どこか張り詰めた、けれどの着いた表で、のトランクからチャイルドシートの点検を素く済ませ、私のもとへと歩み寄ってきました。

「咲良、寝てる?」 「ええ、に乗る直にミルクをんだから」

は咲良の顔を覗き込み、おしそうに、けれどどこか恐る恐る指先でそのさな頬に触れました。

カウンセリングに通い始めて。 健の病な逃避癖が、魔法のように完全に治ったわけではありません。 今でも何かな決断を迫られると、彼は顔を悪くし、線を泳がせそうになります。

けれど、彼はもう私の名を騙ることはありませんでした。 スーパーで材を買う、予防接種のスケジュールを組む、保険のプランを見直す。 健は脂汗を浮かべながらも、自分ので調べ、悩み、最には「俺はこううんだけど、千はどうかな」

広告

と、自分の志として言葉を紡ぎすようになりました。

「千、これ」

が、筒を私に差ししました。 「温かいルイボスティー。むだろ?」

「ありがとう」

私が受け取ると、健はふとち止まり、し照れたように、けれど真っ直ぐに私の目を見て言いました。

「あのさ……帰り、バイパスを通るか、それとも回りだけど舗装の綺麗なを通るか、迷ったんだけど……赤ちゃんの揺れを考えたら、回りの方がいいとうんだ。分くらい余計にかかるけど……いいかな?」

些細な、本当に常の、ありふれたさな選択。 以の健なら、「千、君のためにを選んでおいたからね」と、私の見など聞きもせずに決めていたはずの選択。

そのさな変化に、私は胸の奥がわずかに温かくなるのを覚えました。

「ええ、そうしましょう。回りの、桜が綺麗に咲いているかもしれないしね」

私が微笑むと、健はホッとしたように胸を撫でろし、「よし、じゃあ全運転でくよ」とさく頷きました。

部座席に乗り込み、チャイルドシートに咲良を慎に寝かせました。 のドアが閉まり、静かな内にエンジン音がく響きます。

窓のを流れていく、。 私が戦って、守り抜いた命。 そして、け渡すことを拒絶し、自らので奪い返した、私自

これからのが、平坦なものばかりではないことは分かっていました。

の傷が完全に癒えることはないかもしれないし、いつかどうしても許せない瞬が訪れて、別のを歩むことになるかもしれません。

けれど、もう恐れはありませんでした。 どんなリスクが訪れようと、どんな過酷な現実がちはだかろうと、私は私の志で選び、私ので歩いていくことができる。

「さあ、おうちに帰ろうね、咲良」

眠るが子のさなを優しく握りしめると、の温かなが、けた窓の隙からよく吹き込んできました。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: